10/05
「ゲンかつぎの効能」
朝、アイシャドウを床に落として粉々にしたのが全ての始まりだった。そのせいでいつものバスに間に合わずタクシーを使う羽目になり、出勤したら午前中から急な対応が重なってもうてんやわんや。やっとお昼だと思えばお弁当を持ってきたのにお箸が入ってないし、割り箸で食べ終えた後にはいつもはしないようなミスが見つかって隣の後輩に手伝ってもらった上気を遣われて小さいチョコをもらったりなんかして。とにかく今日はダメなことばっかりの一日だった。
「あれーっ、先輩じゃないっすか」
「梅沢くん!」
残業を終え、意気消沈してコンビニで夕飯を選んでいるところに声をかけてきたのは幕之内くんの友達、梅沢くんだった。高校の頃は面識がなかったけれど、幕之内くんのボクシング絡みで顔を合わせるようになって以来同じように私のコトを先輩、と呼んでくれている。
「それ、ウマいっすよね」
梅沢くんが言った“それ”は私が手に持っている「スタミナカルビDX弁当」を指していて、ちょっと恥ずかしくなった私はごまかすように笑った。
「今日は朝から色々ダメだったから、がっつりカロリー摂ってやろうと思って」
「あ~。ありますよね。厄日っつーか、なんか悪いコトが重なる日って」
「そうそう」
横にあるハンバーグチーズカレーを手に取った梅沢くんと少し話した結果「終わり良ければすべて良し」という結論になり、デザートのアイスもカゴへ入れて会計を済ませる。同じくレジ袋を提げた梅沢くんと店を出て、何となくそのまま街灯の下を一緒に歩きはじめた。
先輩、これどうぞ」
ひとしきり近況を報告し合う間に帰り道が別れる曲がり角はすぐ見えてくる。その三叉路に差し掛かったところでレジ袋を揺らす梅沢くんの手には何かが握られていた。
「牛乳……?」
差し出されたのは青と白のパッケージに牛のイラストが描かれた飲み物、小さいサイズの牛乳パックだった。ジュースとかコーヒーとかじゃなく、牛乳。普段からよく飲むわけでもないし特別牛乳が好きだといった覚えもなかったから珍しい差し入れチョイスだなぁ、と思ったのを察してか、聞くよりも先に梅沢くんが口を開いた。
「ゲン担ぎですよ。オレ、ついてねぇなーって時牛乳飲むと結構良いコトが起こる気がするんすよね」
「へぇー!」
「ま、全然根拠はないですけど……すんません」
「ううん。いいのいいの。ありがとう」
頭を掻く梅沢くんからありがたく牛乳パックを受け取って、私は足早に梅沢くんの前に出る。
「あっ、送りますよ」
「大丈夫!原稿大変なんでしょ。頑張ってね」
ちょうど歩きながら今描いてる漫画の苦労話を聞いていたところなのにそこまでさせられないもの。角を曲がって手を振るとお気を付けて、と梅沢くんも大きく手を振り返してくれた。
コツコツ。耳に届く足音が一人分減ったところで、もらった牛乳にストローを差し歩きながら口を付ける。お行儀が悪いのは重々承知だけどいいんです今日は。それに夜だし。一口吸うたび素朴な甘味が今日一日のモヤモヤをほぐしていくようで帰る足取りはさっきより断然軽い。会社の後輩といい梅沢くんといい、周りに恵まれてるなぁ、私。しみじみそんなことを考えているとバッグの中がふいに音を立てて震え出した。鳴っているのは携帯電話。電話の相手は……木村さん!!
「もしもしっ」
「お疲れ、ちゃん」
前に「火曜か水曜あたりに10日のコトを話そう」って約束をしてたから先に電話かけてくれたんだ。
「すいません、今日私から電話するつもりだったんですけど遅くなっちゃって」
「いや全然……ん、いま外か?」
横を走り抜けた車の音が聞こえたのか、木村さんはいぶかしげに声のトーンを落として私に尋ねた。
「ええ、今日残業が長引いてしまって。やっと帰れるところです」
「あー残業な!……よかった。ってよくねえか。遅くまでご苦労さん」
ああ、今日あったイヤなコトこれで全部チャラかも。
「ありがとうございます。もう家着くので私からかけなおしますね」
優しい口調が耳をくすぐって、じんと頬が熱くなる。帰りながらじゃなくゆっくり話したいなぁ。そんな思いと共に心臓の音と歩く歩幅は自ずと速まるけれど、木村さんの声がそれを遮った。
「いいよ。このまま電話繋いどけって」
「でも」
「夜遅いのに一人じゃ危ねえよ。オレも心配だしさ。な?」
ちょっと待って。
「そしたら、はい。お言葉に甘えて」
梅沢くん、ゲン担ぎ効果すんごいんですけど?!

(10月10日まであと5日)