10/02
「お祝い返し」
「あれ、出かけるんすか?」
ジムの戸を開けると、入り口で鉢合わせた八木さんはいつものラフな格好ではなくスーツにビジネスバッグを提げていた。
「おはよう木村くん。今日は会長と大学の視察に行くんだよ」
「大学?」
「そう。ボクシング部のある学校をいくつか回って、プロを目指してる子の話を聞いたりだとか、筋のいい選手がいたら声をかけようって」
「第二の板垣を探そうってんですね」
一口にボクサーと言えどもこの世界に飛び込んできた経緯は皆様々。オレや青木、鷹村さんのように高校中退したヤツや、一歩のように高校を卒業して本格的にプロ入りしたヤツ。それから大学でアマから転向するヤツもいる。ウチのジムでいうとその筆頭が板垣だ。
「そうだね。やっぱりアマでやってる選手は基礎が出来てるからプロになっても早く活躍できるだろうし、それに」
そこまで言うとスッと八木さんの顔に影が差し、眼鏡の奥が光った。
「一人でもスカウトできれば……入会金だけでも大きいからね」
「あ、なるほど」
普段はニコニコと温厚な八木さんだが、釣りと資金繰りが絡むと話は別だ。はたから見ればまるで「その筋」のような表情とオーラに思わず顔が引きつる。しかも視線を下げると八木さんの首元に締められたネクタイには普通のサラリーマンはそうそう付けなさそうなハイブランドのロゴが入っているからますます容疑が濃厚になってしまう。下世話なハナシだが結構いい値段するぞ、アレ。
「八木さん」
「ん?」
「そのネクタイ……」
すっかり目のつりあがった八木さんへ話題を逸らそうと口を開いたのは「高そうなブランドですね」と茶化し半分で続けるつもりだったけれど、よく見ると思いのほかシンプルで嫌味のないデザインはスーツや他の小物から浮くことも無くしっくり馴染んでいる。
「や、センスいいなと思って。オシャレですね」
「ああ、これ?実はいただきものなんだ」
素直に感想を伝えると、幸運にも八木さんは普段のトーンに戻り穏やかに返事をした。
「この前『シュガーレイ』のママが新しいお店を出したからお花を送ったらお祝い返しにくれたんだよ」
「へぇー」
「向こうもプロの女性だし、商売だって分かってるけどやっぱり嬉しいよね」
「待たせたな八木ちゃん」
そんな話をしているうちに奥から会長がやってきたので二人を軽く見送ってからオレは更衣室に向かう。
「お祝い返し、か」
誕生日の日。おそらくちゃんはプレゼントを用意してくれているだろう。八木さんのハートをがっちり掴んだママさんの手法にあやかるべく、練習用のTシャツに袖を通しながら最近のちゃんとの会話を思い返してみる。
「ありがとうございます、木村さん」
ふわっと薫るような笑顔がつられて浮かび、ついつい緩む口元を慌てて引き締めるとそんな甘い香りなぞ露ほども縁のない男の城で今日も練習に励むのだった。

(10月10日まであと8日)