now printing

「これからの話をしよう」

小橋健太

 


レンタルビデオ店のバイトを終え、いつもなら真っすぐ家に帰るところを、珍しくふらりと立ち寄った居酒屋で夕食がてらの食事とビールを注文する。
久しぶりに口を付けたアルコールには思いのほか感動は無く、代わりに「お酒ってアルコールが入ってなかったらもっとオイシイのに」と甘いジュースを飲みながら訳の分からないことを言って笑う彼女のコトばかりが頭に浮かんであらかた食事に手を付けるとグラスを半分も空けないうちに会計へ立った。
例えるなら月の上を歩いているような――いや、月の上を歩いたことはないが、彼女のマンションのポストに手紙を投函してからは一日中そんな調子だった。
レジの前で取り出した財布から覗くライセンスカード。それを手放す覚悟を決めても不思議と後悔は湧いてこなかった。それはこれまでボクシングと共に歩んできた月日が概ね満足のゆくものだったからだと思う。
自分のボクサー観を覆すような素晴らしい試合が出来た。Jフェザー級に階級を落としてひとときでもベルトを手に出来た。次のやりたいことだって見つけた。もうこれ以上はない。
ただ気掛かりなのは、ボクシングにかまける自分に文句の一つも漏らさずそばに居てくれた彼女の存在だけ。

、ちゃん」
「どういうコトなのこれ」
春が居眠りしたような気温の今宵。肌寒い夜風の合間を縫ってアパートの前に着くとコンクリートブロックから腰を上げたちゃんは立ちつくすボクに見覚えのある手紙を押し付けた。シャツと数枚の便箋の上から感じるちゃんの指はとうに冷えきっている。いつから待ってたんだい?そう聞きたかったけれど肌を刺す風よりも冷ややかな視線に気圧されてボクの疑問は音として生まれるコトは無かった。
「電話も出ない、メールも無視。言い逃げなんてズルいよ。私に説明する義務あると思う」
「説明もなにも、それに書いただろ」
「健太くんの口からちゃんと教えて」
口を真一文字に結んで無表情を決め込んでいるちゃん。対照的に別れを切り出したはずのボクの方が情けない顔をしているに違いない。手紙をしたためた時の決心が揺らぎそうで、置き去りにされたコンクリートブロックを見つめながらボクは口を閉ざした。
自分に言い聞かす。なにも動揺するコトはないんだ。だってここまでは想定内なのだから。
自惚れかもしれないけれどちゃんはきっとボクを引き止めるだろうと分かっていた。だから「別れたくない」と言われた時の返事だって準備してある。
「私、別れたくない」
それを伝えるだけ。
「……って言いにきたワケじゃない」
「え?」
思わず顔を上げると先程から僅かに眉をひそめたちゃんと目が合った。
「だって健太くんに気持ちが無くなったなら引き止めたってどうしようもないでしょ?……でも、最後にホントの理由を聞かせてほしいの」
今度は向こうから視線を逸らしたちゃんはボクから離れると口許にきゅっと力を込めて途切れた言葉を再び結び直した。
「じゃないと私、次に行けない、から」
風に乗ってボクの耳に届いた声は震えていた。
「ボクは……」
理由を伝えるつもりは元よりない。
例えちゃんが今ひと時悲しい思いをしたとしても、その気持ちは時間が解決する。自分を恨んでくれていい。「最低なヤツだった」といつか新しい相手の元で笑ってくれれば結果的にそちらの方がちゃんの人生は幸せに違いない。
そのために何も言わず消えよう。何度も何度も考えて出した選択だった。
「実は、引退しようと思ってる」
「うん」
「それで……明日、引退届を出すつもりで」
「うん」
「一ヶ月前くらいから練習生のミットを持ってるって話しただろ?性に合うみたいでさ。トレーナーをやりたいと思ってるんだ」
「うん」
でもボクの考えとは裏腹に、紡がれるのは胸の奥に鍵をかけたハズの言葉ばかり。
「相談せずに決めてゴメン」
「ゴメンは聞き飽きたよ」
「……ゴメン」
ちゃんはそれ以上何も言わない。ただただ下唇を噛んで視線を地面に落とす姿が胸に刺さって泣けてきそうだった。彼女にこんな顔をさせているのは紛れもない自分だというのに。
「これまでちゃんにたくさん我慢させてきたのに、また慣れない仕事を始めてさ。きっとこの先今よりもキミに迷惑かけてしまうと思う。ボクはちゃんの彼氏でいたいよ。他の男に渡したいわけじゃない。でも、それ以上にキミの幸せを願ってるんだ。キミにはこれ以上悲しい思いや寂しい思いをしてほしくな――」
「だったらそう言えばいいじゃない!」
突如声を張り上げたちゃんは下を向いたまま手紙を握った手に力を込めた。
「健太くんはいつもそう。いっつも辛いとか悲しいとか自分のコト誰にも言わないで、なんでも一人で抱えて、それで勝手に答え出しちゃうんだね」
ちゃん」
「私が寂しいのは健太くんがボクシングに熱心になってるからじゃない。なかなか会えないからでもない。健太くんが、自分から突き放せば私が幸せになれるって勘違いしてるコト。ひとりよがりで優しくしようとするのが寂しいの」
固く結ばれたちゃんの手がゆっくりと差し出される。吹き抜ける冷たい風に揺れる手紙がカサカサと音を立てた。
「これに健太くんは自分と私は違うって書いてたけど、私達何も変わらないよ。ねえ、今までずっと一緒にいたのにホントにこう思ってる?――私のコト、ちゃんと見てくれてた?」
くしゃくしゃになった手紙を奪ったのは、ちゃんの頬に雫が滑り落ちたのと同時だった。
ちゃんのこんな顔、最後に見たのはいつだっただろう。思い出せない。思い出せないくらいボクの前でこの娘はいつも笑ってくれていたんだ。今までずっと、ずっと。
そう思った瞬間、気づけばちゃんを抱き締めていた。
「ちゃんと見てたさ。入学式の時からずっと。キミは思いやりがあって、明るくて、優しくて、賢くて。もちろん外見も綺麗、だけど。意外とズボラで、数学が大の苦手で、好き嫌いが多くて、歌を歌うのもあんまり上手じゃない」
「うん」
「ボクはいつも中途半端で、決めたコトを最後までやり遂げられなくて、そんなのはもうやめようって新人王戦の時に決めたハズなのに、結局またキミを諦めきれないでいる」
「それでもね、前に選び直したのは後悔しない道だったでしょう?」
「そうだよ」
「今回も、そうだって思っていい?」
力強く頷くとちゃんはボクの肩に顔を埋め、風音の中でもはっきりと聞こえる声で泣いた。
「二度とキミを泣かせたりしない。なんて言うつもりはないよ。でも、二度とキミに嘘はつかないって約束する。だから……もう一度ボクの彼女になってくれますか」
真っ赤な目でボクを見上げたちゃんが微かに笑った。
「私はずっと彼女のつもりなんだけど」
「ゴメン」
「だからゴメンは聞き飽きたってば」
涙の痕を拭ったら冷たい指を包み込んで歩き出す。部屋に入ろう。聞いて欲しいんだ、これからのコト。冷蔵庫に入ってるキミの好きなあのジュースを飲みながら。


06:13 / 2022