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| 「心にさわらせて」 沢村竜平 |
「おせぇ」
頼りない蛍光灯の光に照らされ、玄関の前に座り込んでいたのはニッカポッカを穿いた尖った目の男だった。
「だって今日、会社の飲み会あったんだもん」
鍵を開けると竜平は私の後ろから当然のように中へ入ってくる。それから手に持っていたレジ袋を私に押し付けて、自分はさっさと風呂場へ引っ込んでしまった。断っておくがこの部屋の主は私だ。私なんだけども。ほどなくして聞こえてくるシャワーの音をバックに、水を飲みながらフライパンへ火を入れる。もうこんな調子はいつものコトで怒るのも疲れてしまった。
いつ来るかも言わなけりゃいつ来ないかも言わない。そんな奇妙な関係を続けて随分と経つ。今日みたいな場合もあるんだから連絡のひとつくらいくれたっていいのに、何度言っても彼は先のコトを教えてくれない。沢村竜平という男は些細なことさえ一遍たりとも私と「約束」を交わすことはなかったのだ。
「おい、タオル」
「私は『タオル』じゃありませーん」
「屁理屈抜かすな」
洗面所から伸びる太い腕に渋々バスタオルを渡すと少しして出てきたTシャツ姿の竜平はこれまた当然のようにテーブルの前に座って食事が出てくるのを待っている。子供か。傍若無人な態度に悪態をつきながらも律儀な私は甲斐甲斐しくフライパンの中身を彼の前に置いてやるのだった。
「ねえ、今度私の分も買ってきてよ。いっつも自分だけいい肉食べてさ」
ステーキを黙々と頬張る横顔に問いかけてみる。
「気が向いたらな」
「約束」
「イヤだ」
「……竜平は聞いてくれたコトないよね。私のお願い」
一定のリズムで彼の口に吸い込まれる肉片が、フォークに刺さったまま空中でふと止まった。感情の読めない三白眼が何かを探るようにじっと私を見つめてくる。
「お願いっていうか、約束」
「んな不確かなモン、交わす必要ねえ」
「どうして?」
「した時点で守られない可能性が出てくるだろ」
小さな瞳は瞬きもせず、なおも私を射抜き続ける。
「イミわかんない」
「約束なんてするから「裏切り」だの「反故」だのって言葉が出てくるのさ。他のヤツなら息の根止めて償わせるが、には気が進まねえ。……なら、そんな話は最初からしなけりゃいい」
ああ、そうか。変わらぬ表情で、変わらぬ口調で、淡々と吐き出す竜平の言葉に混じったノイズをようやく感知した私の脳裏には、見たこともない映像がストロボ連射のように映し出されてゆく。赤い雫、ヒヤリと光る銀のナイフ、黒塗りの部屋、顔の見えない女性、窓に映る冷たい夜空、座り込んで泣いているいつかの……少年。
この人はまだ子供なんだ。いくら見た目が厳つくなったって、喧嘩が強くったって、瞳の奥に透けて見える柔らかい部分はじくじくと血がにじんで、あの日の子供が泣いているまま。
「私は置いてかないよ。竜平のコト」
「あ?」
「私がいなくなるのが怖いって、そんな口ぶりに聞こえた」
あ、怒るかも。頭の片隅でぼんやり思いながらもコップ一杯の水じゃ消せないアルコールが理性を介さず言葉を滑り落してしまう。
「そうかもな」
「えっ」
「と居るのは存外悪くないよ。アンタは追及も拒絶もしないしバカみてえな正義感かざしてオレを正そうともしない。それに『肉』の具合もそこそこだしな」
「うっわ最低」
露骨に顔をしかめてやると、長々私を見つめていた視線はさっと身を引いて何食わぬ顔で宙に肉を口に放り込む作業を再開した。それから残りのお肉を数切れ飲み下し「寝る」と一言、私のベッドにそそくさと潜りこんでいった。
「あのね。私も怖いよ。竜平がいなくなるの」
動かない背中へ投げかける思いは予想よりも独り言の声色で紡がれる。
「だからこそ私は約束がほしい。竜平が居ない間、次また会えるんだって思ってたい」
「酔ってんのか」
「『そうかもな』」
「くだらねえ」
「……あっそ」
コップの底にしがみつく水を飲み干して席を立つ。私が今まで抱えていた、こんな風にしか漏らせなかった本音は彼にとって一言で一蹴して終わりの、その程度のコトだったのか。悔しくて恥ずかしくて逃げるように洗面所へ向かう私へ、竜平はこんな時ばかり「明日はさっさと帰って来いよ」なんて聞いたコトも無いような声でつぶやくのだ。
10:24 / 2021