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知っているのは顔と名前と、事務的な会話からほんの少し垣間見える人柄程度。しかしそれでも落ちてしまう恋がこの世には存在する。その他大勢の一人に過ぎなかった誰かを気が付けば目で追ってしまう。もっと奥が知りたくなる。いつしか相手の存在が目の前に躍り出て心を乱してゆく。
今まさにそういった感情に明け暮れている
だからこそ、彼女を翻弄している張本人、間柴へ投げかけた疑問は意外にも核心に迫っていた。
「間柴サン、最近元気なくないですか?」
何でもない平日の昼下がり。本日も配達業に勤しむ間柴は
の勤務先が発注した大量のコピー用紙を台車から下ろしながら、怪訝な顔で声の主へと視線を寄越した。
「ナゼだ」
「うーん……なんか分かんないケド、いつもと雰囲気違うっていうか~」
ストーンの光る爪先に握られた、これまたストーンの光るボールペンでふにふにと自身の頬をつつく
にふん、と鼻を鳴らした間柴には彼女が指摘した正体に見当が付いていた。
間柴の世界を大きく揺り動かした「あの夜」。
ゴールデンウィークも明け、すでに二週間以上経とうとしているがそれはこの先間柴が耐え忍ぶ時間のほんの一握りでしかない。例え己の選択に後悔はなくとも晴れきらぬ感情は依然として整理が付いていないのだと間柴は心のどこかで理解していた。ただ、それが態度に出ているつもりはなかったが。
「色々あるんだよオレにも」
「色々?色々って例えば?」
「言わねえ」
「悩みごととかぁ?」
鬱陶しいと言わんばかりに空になった台車から顔を上げた間柴は
に伝票を押し付けた。無言の主張を感じ取った
はむっと口を閉ざして受取名にペンを滑らせてゆく。
「そういうの、一人で抱えてるとドツボにハマりますよー」
結局数秒も続かない静寂を破った声を追いかけて仏頂面から舌打ちが飛び出した。
「ちょっと~お客さんに舌打ちとかありえないんだけど!」
「社外の人間茶化してるヤツが言えたことか」
「茶化してませんて!どっちかっていえば心配してるんです」
サイン入りの伝票と共に返ってきた
のさっくりした話し声は今や新鮮な響きとして間柴の耳に入ってくる。彼の妹も、会社の社長も、ジムの会長も間柴を取り囲む人は皆どこか遠慮がちに言葉を選んで彼に接するからだ。
は知らない。間柴が身を置くもう一つの世界のコトを。
「グチとか悩み事とか私全然聞くんで言ってくださいねっ。できれば場所はビールのおいしい……」
「ボクシングのコトなんててめえに話したところで分かんねえだろ」
「ボクシングぅ?」
間柴が発した格闘技の名前を聞き、
が真っ先に思い浮かべたのは
の広い交友関係の中でも親密な関係を築いている一人の女性だった。
「間柴さんボクシング好きなんですか?」
「まあな」
「私の友達にもボクシング好きなコいるなぁ。大学ん時の友達なんですけど、今でも仲良くってよく遊びに行ったりするんです」
大人しそうな雰囲気とは裏腹に、会うたびその単語を口にしていたのを思い出し、続いて間柴同様ボクシングが原因で度々表情を曇らせていたのも
は一緒に思い出した。間柴の悩みとやらも同じだろうか。目の前にいる男がまさか日本屈指のボクサーだとはつゆも知らない
は何かを思いつき、ポンと手を打った。
「――間柴さん、やっぱ今度飲みに行きましょ!」
「は?」
「私ボクシングのコトはよく分かんないですケド、すっごくアツい世界なのは知ってますよ。そのコ、贔屓の選手がいるみたいで試合負けた時は自分の……や、自分のコト以上に落ち込んじゃうんですもん。で、そーゆー時はそのコをスイーツバイキングとかおいしいゴハンやさんに連れてくんです。いっぱい食べてトコトン語る!そしたらちょっと元気になってくれるんですよね。だから間柴さんも食べて飲んで語りまくったらスッキリしますよ!」
空の台車に手をかけ次の配達先へ向わんとする間柴へ小さな握りこぶしを能天気に振り回す女。ああ面倒くせえ。答えは当然NOだ。
「分かんのか、オレの話」
「えと、そのコも連れてきますから問題なしです!」
「オゴリだろうな」
「も、もちろんですとも!」
「分かった」
隣の部屋から聞こえるコピー機の印刷音に負けそうな程の小さく短い返事をして間柴は制帽のつばを深く下げた。
「……え、ほんとにいいの?!」
答えは当然NO、のハズだった。しかし直前でひっくり返った答えはただのきまぐれか、それとも別の要因なのか。
一秒待ってください!そう叫んで執務エリアへ駆けていった
は爪先に負けない輝きを放つ名刺入れを携えて再度間柴の前に現れた。中の名刺を裏返し、走り書きをするとほんのり朱に染まった頬を寄せ間柴の胸ポケットへその小さな紙を押し込めた。
「これ、私のケータイ番号。電話してね」
胸元から聞こえる鈴の鳴るような笑い声に危うく「別の要因」に気付きかけた間柴は足早にその場を後にしたのだった。
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