時計が退勤時間を指すと同時に職場を後にしたと、頃合いを見計らってジムの練習を切り上げた木村。待ち合わせた二人が食事をしたその帰り、いつものように木村がの家まで送る道中の出来事だった。
「えっ?!いいんですか?!」
ほっこりと香るのは油と砂糖と小麦粉のスイートな誘惑。木村が差し出す袋の中身が何なのか勘づくと、の見開かれた目はそばを通り過ぎる車のライトをキラリと反射させた。
「お土産。昼に家の仕事で空港の方行ってきたんだよ。普段あんま行かねーしなって思ってさ」
軽い会釈をして袋を受け取ったは視線を袋の上で彷徨わせ、やがて印字されている店名を見つけると「やっぱり」と、小さくつぶやいた。
「ありがとうございます。私、ここのドーナツ大好きなんですよ!」
「お、ちゃん知ってんだ」
「ええ、ええ!家も職場も近くに店舗なくてなかなか買えないので嬉しいです~!」
「ならよかったよ。まあ、ちゃんがドーナツ大好きだってのはこの前でよーく分かったけど」
「……それは忘れてくださいってば」
「ゴメンゴメン」
以前の小さなひと騒動をチラつかせ意地の悪い笑みを浮かべる木村の横では口をとがらせるが、奥で点滅する緑の灯りが赤に変わり、立ち止まった横顔は直ぐにむずむずと口角が上がってゆく。
「ベンツのマークのチョコ乗ってるやつにしたぜ」
「やった!店舗限定のやつですね」
木村は同じく緑色のドットが鮮やかな袋の中身をへ耳打ちすると、への字口はどこへやら。瞬く間に返ってきたクリーンな笑顔につられて木村も肩を落として笑みを漏らした。怒ったそぶりが下手くそすぎやしないか。そう思いながらものそんな器用じゃない部分も木村は好きだった。
二人、並んで信号が変わるのを待つ。いくつも目の前を横切る車の風に遊ばれ、顔に落ちた髪を一束は耳にかけた。耳を伝って自分の間で無防備に垂れ下がるの腕、その手がどうにも気になる木村は横目でチラチラとを盗み見る。淡いピスタチオグリーンに彩られた彼女の指先をなんの躊躇なく掴んで抱き寄せられる関係になれたら……そう思って如何ばかりだろうか。ほんの少し動かせば簡単に触れられる距離、今、自分が手を伸ばせば彼女はどんな顔するだろう。そんなことを木村が漠然と考えていると、視線に気付いたとうっかり目が合ってしまった。暗がりの中、流れる車のライトに照らされる白い肌は木村を視界に入れると照れくさそうに微笑んだ。
「木村さん」
赤い唇が名前を紡げば木村に聞こえるのは自分の大きな鼓動だけ。さっきまで雑然と聞こえていた四車線を行きかう車の排気音、風切り音、辺りの喧噪はピタリと音を無くし木村の耳にはもう入らなかった。ゴクリと喉を鳴らして意を決した木村はそっと手を伸ばす。手が触れ合うまで5cm、4cm……3cm、のところでの瞳に映る灯りが赤から緑へと変わった。
「あの、コンビニ寄ってもいいですか?」
「こ、コンビニ?!」
残念ながら先ほどのソレは”耳に入らなかった”のではなく、本当に”音を無くし”たのだ。目の前で流れていた車は赤信号で足を止め、代わりに自分たちの前にある歩行者用の信号機は下段の緑が煌々と輝いている。一歩先に横断歩道へ踏み出すを追って木村は宙ぶらりんの手を苦々しくポケットにしまい込んだ。
「すみません送ってもらってるところなのに。せっかくだから明日はがんばって早起きして、いただいたドーナツを朝ごはんにしようと思ったんですけど……家に牛乳がなくって」
「『ドーナツにはカフェオレ』だったな。いーよ。そこの角曲がったところにあるだろ、コンビニ」
「あれーっ、詳しいですね木村さん」
木村の指し示す先は二人で帰る時にはおそらく通ったことのないルート。事実、その道筋にコンビニはあるのだが、木村の家からも彼の通っているボクシングジムからも遠い住宅街の中にあるコンビニの所在を正確に言い立てたのはにとって意外だった。
「この辺元ジムメイトが住んでっから様子見にたまにバイト先行ったりしてんのよ」
「なるほど、だからご存知なんですね」
横断歩道を渡り切って、の住むマンションまでいつもは直進して帰る道、先ほど木村が言った角を曲がると暗い夜道に看板が浮かび上がった。コンビニ「Márquez」。奇しくも世界に名を馳せた名ボクサー兄弟と同じ名を冠するそのコンビニはが朝出勤前に毎回立ち寄る店だった。
「私、仕事行くときはあそこからバス乗ってるんですよ」
「へー、さっきの大通りのバス停じゃねーんだ」
「ええ。路線的にこっちしかなくって。そうだ、朝いつもここのコンビニ寄るんですけど、面白い店員さんがいるんです」
二人が自動ドアを抜けると、「いらっしゃいませ」の一言も返ってこない静かな店内。申し訳程度に流れる有線のBGMだけが居心地の悪さをどうにか和らげていた。そしてレジの中で腕組みをする黒髪が涼やかな仏頂面の店員はが朝コーヒーを買う際よくレジを担当しているバイトの青年で、まさにの言っていた"面白い店員"だった。木村に話を切り出すタイミングを窺っていると、当の木村はずかずかと真っすぐレジの前まで歩を進めてゆく。
「よォ、宮田クン」
「……木村さん」
レジに立つ青年――宮田一郎は目の前でニヤつく客が誰なのか分かると整った眉目をすっと細めた。

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