行くも後悔、行かぬも後悔。どっちを選んだって心のすみっこに座り込む不安は出てっちゃくれない。
「なら絶対行った方がいいってば!」
そんなふうに簡単に言えるのは自分に関係ないからよ。そう思いながらも結局前者を選んだのはきっとこれが私の本心だからだろう。
ああ、やっぱりやめとけばよかったかな。公園のベンチに座っている間も鳴り止まない心臓はスピーカーを通したようにうるさくて、緊張と不安で体の奥にこもった熱を釣瓶落としの夜風で冷まそうと試みる。
よかったのかな。だめだったかな。やめとけばよかったかな。
今更どうにもならないことを何度も頭の中で考えながらさらさらと揺れる木をぼうっと見つめていたらフェンス越しに木村さんが手を振って駆けてくるのが目に留まり、脇の手提げ袋をぎゅっと握りなおして立ち上がった。
「よっ、ちゃん」
「お疲れ様です! すみませんお時間作っていただいて」
「こっちこそ、わざわざジムの近くまで来てもらって悪いな」
重そうなボストンバッグを地面に置いて木村さんがベンチに腰掛けたので私ももう一度隣へ腰を下ろすとにわかにやってくる宙ぶらりんの時間。その隙間からこちらを覗く木村さんは気まずそうに私へ笑いかけた。それもそうだ、用件を先に伝えていたんだから。肝心の一言までの助走として手慰みにいじくり倒したリボンを見えない位置でさっと整える。
「メールでも先に送ったんですけど……お誕生日おめでとうございます、木村さん」
最後まで踏ん切りがつかず視線を遮るようにプレゼントの入った手提げ袋を差し出せばサンキュ、と一言、指先まで脈打つ私の手を離れて無事隣の大きな手へ渡ってゆく。揺れるサテンに合わせて様子を窺うと優し気な目尻をとろんと細めた木村さんと目が合った。
「開けていい?」
「どうぞどうぞ」
鼻歌交じりにラッピングを解いてゆく姿は失礼かもしれないけれどなんだか少しかわいいな、と思いつつ、それと同時にグローブをはめた時に見せる鋭い視線とのギャップを感じて勝手に早まる鼓動から逃げるようにそっと空を仰ぎ見た。日ごとに長くなる月と星の時間。生垣に咲いた金木犀。の、甘い香りを纏ったさわやかな風。気づかないうちに秋は私たちをひしひしと取り囲んでいる。
「お、Tシャツ!」
そんな秋の日によく映える深いピーコックグリーンのジャケットから伸びる指先がお目当ての中身をつまみ上げた。
「どういうものがいいか分からなくて。これならジャージの下とか寝巻着くらいなら使ってもらえるかな、と思いまして」
「何言ってんだよ、いいトコのやつじゃんこれ。寝巻着どころかジムで使うのももったいねぇくらいだよ」
遠くから眺めたりくるくる回したりしたあと、服の上から当ててどう?と聞いてくる木村さん。お似合いです、と返事をすれば満足気に「ちゃんセンスがいいからな」なんて頷いているけれどプレゼントしたTシャツは無地に近いシンプルなもので、様になっているのは断然モデルの力が大きいと思う。……ともあれ
「喜んでもらえたなら安心しました」
「そりゃ喜ぶさ。今日、こうやってちゃんと祝ってくれたのちゃんだけだったからなぁ」
背もたれに体を預けて笑う木村さんに反してまたもや私の心臓はドキリと跳ねた。ただ今度は先ほどの甘酸っぱいものではなく、言うなればガラスのカップが手から滑り落ちた時のような。そんな後ろめたい気持ちが伴っている。
「私だけ、ですか」
今日は10月10日。木村さんの誕生日。一介の練習生じゃないれっきとしたプロボクサーとして所属する彼は鷹村さんや幕之内くんたちと同じように鴨川ジムの中心人物だろう。それならジムに顔を出してお祝いひとつ無いわけがない。
ちゃんが来てくんなかったらロードワークと練習だけで終わっていく寂しい一日だったよ」
「そうですよね」
「ん?」
皆さんが遠慮した理由はきっと
「もうすぐ、試合ですもんね」
4日後に木村さんの試合が控えているから。
「すみません木村さん! お忙しい時だって分かってたんですけど」
「おいおい気にすんなって。今日大丈夫ってメール返したのオレだろ?」
木村さんはこう言ってくれているけれど、試合の前日に計量があることを思うと実質残された準備期間はあと3日を切っている。本来の適正階級であるライト級から一つ下のジュニアライト級で試合に出る木村さんは特に、最後の体重調整で大変な時期だってボクシングに詳しくない私でも容易に想像がついていた。だからこそこんな時にノコノコ会いにきていいものかこれまで何度も自問自答したのだ。
「無理なら最初から言ってるよ。また今度にしてくれ、ってな」
「でも計量が……」
「あのなぁ」
体勢はそのまま、眉間に皺を寄せフンと鼻を鳴らして木村さんは言葉を続ける。
「これまでオレが何回試合やったと思ってんだ。減量なんて慣れっこだよ。オレが大丈夫って言ったら大丈夫なの」
分かった? と言わんばかりに刺さる視線に耐え切れず首を縦に振ると小さく「よし」と短い独り言が聞こえてきた。
「でもまあ明日もあるし、遅くなる前に帰りますかね」
開けたTシャツを几帳面に不織布に包み直して木村さんは立ち上がり、くっと背筋を伸ばした。
ちゃん、大通りの方だっけ」
だんだん遠ざかる木村さんの背中へ中途半端に伸ばした手が空を舞う。今日、自問自答しながらもここに来ることを選んだのは、何の事情も知らない友達から面白半分に背中を押されたからじゃない。木村さんに渡したかったものが三つあったから。
一つは「お誕生日おめでとう」ってお祝いの言葉。
一つは用意したプレゼント。
そしてもう一つは。自分のバッグをごそごそとまさぐって、底から薄い紙袋を拾い上げた。
「木村さん!」
公園に佇む心許ない街灯の下でこっちを向いた木村さんを追いかける。
「どした?」
「実はもう一つ受け取ってほしいものがあるんですけど」
手渡した紙袋の中からコロリ転げ落ちた上質な金襴生地の小袋は木村さんの手へすんなり収まった。中身は勝負事のご利益で有名な神社のお守りだ。
「負けてもいい試合なんてないですけど、リングネーム変えられてから初めての試合ですし幸先良いスタートになればいいなと思っていただいてきました」
大きく目を見開いたままじっとこっちを見た木村さんからは返事がない。沈黙が怖くなった私は内心冷や汗をかきながらしゃべり続ける。
「とは言っても次の対戦相手ランク下の選手ですし、木村さんぐらい実力のある人には必要ないかも……ですけど、私にできることってこのくらいしか思いつかなくて」
「ほんとに、やさしーなぁちゃんは」
風で飛んでいってしまいそうな声がかろうじて耳に届く。
「そんな」
「最初に会った時からずーっと変わんねぇ」
いつもの距離より一歩こちらへ近づいた木村さんの右腕がおもむろに伸びてきて私の頬に触れた。
薄暗がりの下でいつもより近くで見る木村さんの顔。くっきりとした二重、よく見ると長い睫毛、すっと通った鼻筋。でも顔にかかる硬そうな黒髪と少し粗い質感の素肌が鮮烈に男性的な印象を脳裏へ結び付ける。
「オレはちゃんのそういうところ」
私の頬を滑る肉厚な親指の感触があまりにも穏やかで顔が一気に熱くなるのが自分でも分かった。
「き、木村さん。あの」
 たまらず声をかけると左頬に触れられた温もりがぱっと離れてゆく。
「あ~~、その、すごく励みになるよ」
「そう、ですか」
「今日会いに来てくれてほんとに嬉しかった」
そう言うと木村さんはくるりと私に背中を向けた。
「うーっし! ちゃんにここまでしてもらったからにはカッコイイとこ見せねーとな」
街灯の下に一人取り残された私は、足早に出口へ向かう後ろ姿を追いかけて光の外へと踏み出した。金木犀の甘い香りがまだ熱の残る頬を通り過ぎる。スカートがふわりと揺れる。入口に植わった木も、大きな月を背負って前を歩く短い黒髪も揺らして通り過ぎる。
「試合」
頑張ってください、と言いかけてはっと唇を噛む。顔は普段より少し痩けていた。もう水分も節制しているんだろう、頬に触れた手はかさついていた。ここに来てすぐベンチに座り込んだのも体に力が入らないからだろう。そんな木村さんが頑張っていないわけが無い。
「試合、絶対応援に行きます。木村さんの頑張りが結果に現れるように」
暗がりの中にほんの一瞬だけ見えた横顔はまるで大人に見つかった家出少年のようだった。
いつも気配り上手で相手に合わせてくれることの多い木村さんだから、手渡される肌触りのいい言葉はどこまで本心かは分からない。だけど、今日は信じていいだろうか。これで良かったんだと。この夜が頼りない街灯の明かりほどでも木村さんの足元を照らせたなら全部差し出したっていい。不織布にくるんで、リボンをかけて。大切な人に渡すプレゼントのように。

おまけ

その夜にリボンをかけて
2020/10/10