甘い水しぶきの匂いがして目を開くと、私はブラウンの大きな塊を握ったまま自分の部屋のベッドで横になっていた。頭が痛くて昨日のことはあまり覚えていない。
ちゃんになんかあったらどうするつもりだよ!」
誰かがそう叫んだ記憶で止まっている。
昨日はそうだ、鷹村さんの祝勝会に誘ってもらったんだった。それで。それで……あ、携帯鳴ってる。
「もしもし」
「あ、ちゃんおはよ。体調大丈夫?」
「まあ。はい」
「そっか。昨日は悪かったな。鷹村さん止めらんなくてよ」
「いえ」
「今日は仕事休みっつってたっけ」
「はい」
「ん。とりあえず無事みたいで安心したよ。ゆっくり休んで。おやすみ」
通話が切れてそのまま目を閉じると、起き抜けに漂ってきた匂いが再び鼻をくすぐりモザイクだらけの頭の中を少しずつ片付け始める。
綺麗な湧き水に花びらを一枚浮かべたような爽やかで優しい匂いは私の大好きな人の匂いで、それは握りしめている塊と同じ匂いで。……え?同じ?閉じた目をはっと開いて飛び起きた私はこの世でいちばんひどい顔をしていたにちがいない。
ベッドの中で私が握っていたのはものすごく見覚えのある男物のジャケット。
部屋には私一人。
昨日の記憶はすっからかん。
良いことなど何一つ思い浮かばないこの状況で真実を知る術は……。ああ神様!などとこんな時ばかり都合よく縋りながら震える指で私は数分前の着信履歴を押した。
「も、もしもし。木村さん?」

次の日。お急ぎ便でクリーニングに出したジャケットを紙袋に入れて待ち合わせ場所へ急ぐ。ドーナツ屋さんの前でひらひら手を振る木村さんに手を振り返してじれったい赤信号が青に変わると駆け足で横断歩道を渡った。
「よー」
「こんにちは木村さん。先日はすみませんでした。その……」
「まあまあ、とりあえず中入ろうぜ」
いつもと同じようににっこりと笑顔でドーナツ屋さんの入口を指さす木村さんには特に変わった様子はなく、ひとまず安堵する。
「……そうですね!」
この前返ってきた健康診断の結果が頭をよぎったが、今週は一駅歩くことにしよう、と未来の自分にノルマを課すことで私は元気よく返事をした。

木村さんの前にはゴールデンチョコレートとオールドファッション、それから山ぶどうスカッシュ。私の前には人気キャラクターをかたどったドーナツが二つとホットカフェオレ。特に根拠はないけれどドーナツはカフェオレと一緒に食べるのが一番おいしい、というのが持論ゆえ、いつもは迷わずブラックコーヒーを選ぶ私も今日ばかりはカフェオレがお供だ。ちょっぴり胸が痛むがキャラクターの顔を模したドーナツは耳のあたりから一口。そのあとにカフェオレを喉奥に流し込めばコーヒーの苦みとミルクのほのかな甘さがドーナツにじゅわっとしみこんで解れてゆく。
そんなこんなで一息つくと、自然と話題に上るのは一昨日の祝勝会の話だ。あの日、赤い顔でビールジョッキを突き付けてくる鷹村さんへお酒が飲めないことを告げると不服そうに渡された代わりの烏龍茶。それを飲んだら胃の中が爆発した。
「しっかしあの人には見損なったぜ」
怒り心頭の木村さんはゴールデンチョコレートを口に放り込んだ。
「まさか烏龍ハイを渡されるとは思いませんでした」
私も原型の分からなくなった顔の一部をまた齧る。
「本人は否定してたけど絶対ワザとだよ。ったく、いくらなんでもやっていいことと悪いことがあんだろーが。一歩間違えば取り返しのつかねえことになってたのによ」
「アルコール中毒怖いですもんね。亡くなることもありますし」
「だろ?ちゃんが椅子から転げ落ちた時マジで心臓止まるかと思ったぜ」
私、椅子から落ちたのか。抜けた記憶を木村さんの話で補いながらご心配おかけしました、と頭を下げる。
実は自分からかけ直した電話では空白の時間について聞けずじまいだった。もちろん意識のない間自分がどうしていたのか不安ではあるし、何よりどんな経緯で木村さんのジャケットが私の部屋に舞い込んだのか、ものすごく気がかりでもある。木村さんとは一昨日どこまで一緒にいたんだろう。お店で別れた?駅まで送ってくれた?それとも部屋まで……?木村さんの態度からして、なんというか……「よからぬ事」にはなっていない、はず。だけれど何かしらお世話になっているに違いないんだから何があったか知ったうえで謝るなりお礼を言わないと。そう分かってはいるものの、不慮の事故とは言えお酒を飲んで記憶をなくすなんてだらしない女だと思われたらどうしようとか、心証を悪くしてこんなふうに一緒に木村さんとお出かけできなくなったらどうしようとか。そんな自分勝手な気持ちのせいでずるずると切り出せないでいた。

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