ちゃん?」
ふと気づくと不思議そうにこちらを見つめる木村さんと目が合った。
「わり、まだあんま具合良くなかった?」
「そんな!全然元気ですよ!」
慌てて首を横に振るが、木村さんはじとっと疑いのまなざしを向けてくる。
「ホントかあ?」
「ホントですってば!それよりも……そう、上着。貸していただいてありがとうございました」
木村さんの視線から逃れた先で目の端に捉えた紙袋をこれ幸いと壇上へ引っ張り上げる。
「どうも。まー貸したってより、ほかに方法がなかったって感じだったけどな」
「え?」
「あれじゃどうしようもなかっただろ?」
「えぇ……?」
冷たい汗が背中を伝う。”あれ”ってなんだ、そんな私の気持ちが溶けだした返事を受けて木村さんはオールドファッションへ伸ばした手をピタと止め、こっちを見た。
ちゃん、もしかして覚えてねーの?」
「ひっ」
心臓が跳ねた拍子に思わず呑みこんだ空気が、喉の奥にべったり張り付いた。身を守るためにあてがった話題はまるで目の前のドーナツが如く。話を逸らすつもりが大誤算だ。バレた。あっという間にバレた。
「えっと、それは……」
今更どう取り繕ったって最後まで体裁を保てるわけがないのに、この期に及んでまだどこかで言い訳を考えてしまう自分を叱咤する。
「なんてな!そりゃねーか」
「……すみません」
「は?!マジ?」
覚悟を決めて声を絞り出せば、本当に記憶がないと思っていなかったんだろう、冗談っぽく笑っていた声が静かに止んで、そのまま黙ってしまった木村さん。怖々様子を窺うと嫌悪感だとか、怒っている感じはなかったけれど、その表情はなぜだか少し残念そうに見えた。
「あー、そうだったか。そりゃ災難だったな」
「恐れ入ります」
「……ならよ、今日なんでココに来たのかのも分かんねーよな」
続けて吐き出された彼の言葉に寂しげな色が乗せられていた理由も、心当たりはなくとも私が原因なのだろう。しかしいくら記憶の引き出しをひっくり返しても中身はひとつ残らず烏龍ハイに奪われた後だ。
「私、ご迷惑おかけしました、よね」
「いやいや全然迷惑とかじゃねぇんだけど」
今私と木村さんがいるのはなんてことのないドーナツのチェーン店。確かに木村さんと待ち合わせや軽い食事をするときはあまり来ないお店だけれど、たまにはそんなこともあるかと別段気にも留めなかった。伏し目がちにグラスへ口を付ける仕草が妙に胸に刺さって手慰みに私もカフェオレへ手を伸ばした。色濃くなる不安とともに心音が早まってゆく。
「ドーナツ」
コトリ、グラスを置いて木村さんが一言。
「『ドーナツ食べたい』って」
見るからに見当のついていない私にもう一押し。
「木村さんが?」
「ちげーよ、ちゃんが!」
「なんで知ってるんですか」
何を隠そうさっき齧ったドーナツは先週から発売された期間限定商品。発売前から楽しみにしていたものの最近増えっぱなしの体重が気になり諦めるかどうか考えていたところ、今回のお誘いがあり大義名分が出来てしまった。「ちゃんどれにする?」とトングをカチカチ鳴らす木村さんに悩む間もなくこのドーナツを指さしたのは少し前の話だ。
「だってよ、ちゃん祝勝会の途中からずーっとオレにドーナツ食いてぇって訴えてたもん。『木村さ~ん、ドーナツ食べにいきましょ~』って、な」
「えっ、ええええええ!」
先ほどと打って変わり今度は私が驚く番。奥に座るカップルが目を丸くしてこちらを向いたのが見えて思わず口を押さえる。
「もう店閉まってるって言っても聞く耳持たないわコンビニのは嫌だって言うわ」
「記憶にないです」
「それはさっき聞いた」
言葉の出ない私をよそに、木村さんは先ほど諦めたオールドファッションをむんずとつかんで話を続ける。
「オレ、ちゃんちまで送ってったんだけどさ。家着いてもジャケットがっちり掴んで離してくんねえから被せて玄関押し込んじまった。あ!部屋ん中は入ってねぇぞ、誓って」
「それは気にしてないんですけど」
「気にしてくれよ」
木村さんの上着が家にあった理由。いつもと違う店での待ち合わせ。あらゆる点と点が線で結ばれて空っぽの引き出しに収められる。
「熱烈なご指名だったからオレ今日すげー張り切って来たのに」
「ほんとにすみません。先週から発売のメニュー、この、キャラクターとコラボのやつなんですけど、結構楽しみにしててですね、それできっと私……」
自分で言ってて馬鹿かと思う。結局のところ、大好きなキャラクターの大好きなドーナツを大好きな木村さんと食べたかった欲望がアルコールによって一緒くたに噴出してしまったという話なのだが言葉に行き詰まった私は視線がカップに吸い込まれてしまう。
「というかめちゃくちゃ迷惑かけてるじゃないですか、それ」
強気に吐き出した言葉尻に反して、中身はもはや泣き言に近い。ぐるぐる。白とベージュが溶け合う様子を視界に入れて頭を抱えた。
「んー」
じんわり耳にしみこんでくる木村さんの声。
「オレにとっちゃあ他のヤツじゃなくてよかったっつーか」
木村さんの椅子が小さく軋んでさっきよりほんの少しだけ声が近くなった。
「嬉しかったんだよ。ちゃんが、酔っ払っててもオレと、って言ってくれて」
空気が動いてまた私の好きなあの匂いがすんと香る。ドーナツのスイートな匂い。カフェオレの芳ばしい匂い。いや、それよりももっと胸を震わせる泳ぐ花びらの香りが。
不適な酩酊の心得と昼のカフェラテについて
2021/01/16