※あれから十年後くらい
駆け足で流れる雲が遠くから雷の匂いを連れてくる。一雨来るなぁ。六月の夕暮れを見上げ、ハッとベランダに干したままの洗濯物を思い出した私は急いでオフィスカジュアルと三センチのヒールを帰りの電車へと押し込めた。
予想通り、家に帰ってほどなくすると屋根から伝った水滴がメトロノームのようにベランダの手すりを叩き始め、夕食を食べ終わった頃にはすっかりカーテンの向こうは大雨になってしまった。
「宏明、お腹でも痛いの?」
「痛くねえよ」
それにしても今日は恋人の様子がなんだかおかしい。
すんでのところで取り込んだ洗濯物を畳んでいる間に一回。夕食を作ってる間に一回。食べ終わったあと一回に、毎週楽しみにしているドラマのタイトルコールが流れたところでもう一回。何の数かというと今無表情でソファの隣に腰掛けた彼、越野宏明がこの数時間でトイレに立った回数だ。と言っている間にまた立ち上がっては狭いリビングをウロウロして、帰ってきて。再びどすんとソファが沈んだ。
いつもは「キョーミ無い」って見ることもない火九ドラマをぼんやり眺める横顔からはなんの情報も得られない。ヘンなの。だけど今はドラマの続きの方が気になって詮索もそこそこに視線は自ずとブラウン管へと戻ってしまう。
「あのさー
」
「なぁに?」
「や、なんでもねー」
私たちの間にあったクッションが端っこへ追いやられて、スプリングが緩んだと思ったらぴったり私の隣へ座り直した宏明の体重でまたソファが音を立てる。
「なに。どうしたの?」
部屋着の半パンから伸びるでっかい足をえいえいっとつま先で小突いてやるけれど、口をもごもごしてるだけの宏明はいつもみたいにやりかえしてくれない。
「あのよ……わり、やっぱいいわ」
いやいや気になるんですけど。
結局集中できないまま見ていたドラマのエンドロールが流れても状況は変わらず。もう知るもんかと遅まきながらテレビモードに気持ちを切り替えたところでおもむろにリモコンを手に取った宏明はテレビの電源を勝手に消してしまった。
「あーっ! 次のドラマも見るのに!」
「話、あんだけど」
ようやく何か話す気になったらしい彼の表情はここ最近見た覚えのない強張りようだった。こんな状態で明るい話を期待する人がいるだろうか。
「どうしたの?」
仕事の異動? 転勤? いや、そんなことで済むならむしろラッキーかもしれない。漠然と不安を感じながらも私に出来るのは足を揃えて次の言葉を待つだけだ。
「俺らって……付き合って結構長いよな」
「高校の時からだもんね」
「ん。で、だから」
歯切れの悪い言葉が通り過ぎたあと、ふーっと鼻で大きく息をした宏明は髪をくしゃくしゃにして立ち上がった。相変わらず外は大雨で、雨粒の落ちる音が部屋に響く中スタスタと歩いていった先はまたトイレ……じゃなくて今度はそばのタンスが目的地だった。引き出しから何かを取り出した背中がくるりとこちらを向いて戻ってくる。近づくにつれ鮮明になる大きな手に握られたエメラルドブルーの小箱。それが何なのか、何を意味しているのか感づいた瞬間に全身を駆け巡ったのは雷のような鼓動だった。
「
」
革張りの小箱を私に握らせた手は小刻みに震えていた。
「待って宏明、これ」
「開けて」
テレビを消した時みたいに唇をぎゅっと結んで眉根を寄せた表情は長い間一緒に過ごしてきて久々に見た顔だ。
思い出した。おんなじ顔を前に見せてくれたのはずっとずっと前、高二の終わりに好きだって私に言ってくれた時だ。そのことに気付いたら今日まで重ねてきたたくさんの気持ちが一気にこみ上げてどうしようもなく胸が苦しくなる。
バスケットボールを追いかけていたあの頃から変わらない、いつだって眩しい私の一番星。私にとってこれ以上の人はどこを探したっていない。だから誰にも言ったことはないけれど、彼女にしてもらえた時からこの恋を最初で最後にしようって決めた。
ずっと一緒にいてほしい。いなくならないで。同じ時間を生きたい。
滲んだ視界の先に光る銀色のリングはそんな私のワガママを全部許してもらえた証のように見えた。
「俺と結婚してください」
一つ、二つ。降り出した雨はメトロノームのように私の手の甲を叩き始めたのだった。
「雨」
2023/06/10・2023/08/20加筆修正