もし私が映画のヒロインだったなら、片想いの相手はきっと「好きな人」と書かれた紙切れを手に私の元へ走ってくるんだろう。
 でも映画じゃないし。アニメじゃないし。現実に駆け寄ってきた彼が私に見せたのは、ただ「1」とだけ書かれたプレートだった。
「なーなー見てたか。陸上部の田中、抜いてやったぜ」
「おめでとぉ」
「んだよ。テンション低っ」
「スポーツバンノー越野様には分かんないでしょーよ」
 額に伝う汗を拭きながら嬉しそうに徒競走の結果を自慢してくる越野君と違って、運動神経を全てお母さんのお腹の中に置いて生まれた私は体育祭なんてただただ憂うつな行事でしかない。越野君には申し訳ないけれど私は今、数少ない出場種目のことで頭がいっぱいなのだ。
 穴が空くほど見た手元のしおりにもう一度視線を落とす。二年の男子150m走が終わった、ということは。
「二年女子100m走、は次の次の次……イヤだ~!」
「何がイヤなんだよ。チャッと走って終わりだろ」
「もー越野君本当に分かってない! 足の遅い人間にとって全校生徒の前で走るのがどんなにイヤすぎることかっ」
「タイム順なんだから一緒に走るヤツだってどっこいどっこいだろーがよ。オレはその気になりゃも普通にトップ狙えると思うけど?」
「トップ?!」
 さも当たり前のように一着を視野に入れる越野君の意見は全員参加の種目をとにかく乗り切ることだけ考えている私の予想を軽々超えてゆく。
 悲しいほどに平行線な会話の合間。二人でふぅ、と息をついた後越野君は「ついてこい」とおもむろに背を向けた。クラスごとに固まって座る待機場所からずんずん離れる背中を早足で追いかける。運動場のすみっこでやっと立ち止まったと思ったら、越野君はしゃがみこんでガリガリと指で地面に何かを書き始めた。
「いいか。良いコト教えてやる」
 私も横に腰を下ろして、地上絵の完成をじっと見守る。
「100m走はコースがこう、カーブになってんだろ」
「うん」
「だからこーやって、なるべく内側走れ」
「ふむふむ」
「で、走る時はとにかく腕を振る」
 何を言い出すかと思えば越野君の口から次々こぼれるのは現実的な徒競走攻略法だった。
 ただのクラスメイトの嘆きくらいハイハイって放って置けばいいのに。でも短距離走のコツを伝えてくれる横顔はとても真剣で、放課後バスケットボールへ手を伸ばすひたむきな眼差しを思い出しドキッと心臓が音を立てた。
 へんなところ真面目で、私なんかにもこうやって面倒見てくれて。でも越野君のそんなところがカッコイイなと思うし、好きだなって思う。とても本人に言えやしないけど。
「分かったか」
「う、うん。ガンバる!」
「うし」
 コースの内側、腕を振る、着地はつま先から。教えてもらったことを復唱しながら立ち上がると古ぼけたスピーカーからザラザラした声が聞こえてきた。二年女子、100m走。集合場所は本部テント前。
「越野君ありがとう。行ってくるね」
「ん」
 なんだかいつもより速く走れる気がする。集合場所に向かう足はさっきより幾分軽くて我ながら単純だと思う。
はさー」
「んー?」
 ここに来る時と反対で今度は越野君が私のあとを付いて歩いてるから、背後から聞こえる声を頼りに返事をする。
「運動神経からっきしだけど、サボったりしねーで一生懸命やろうとするところはオレ、す……いいと思う」
「うん……? ありがと」
「あ! あと!」
「わっ」
 突然熱い感触と共に重心が揺さぶられる。それが越野君の分厚い手のひらが私の腕を引いたのだと分かるまで随分長い時間がかかったように思えた。
「な! なに?!」
「今日クラスの打ち上げあんだろ? 行く?」
「い……行くつもりだけど……」
「っしゃ、席、近く座れよな。また喋ろうぜ」
 それから私の答えを聞いてぱっと笑顔を見せた越野君はそう言い残して運動場の真ん中へ戻っていった。
 私は映画のヒロインじゃないしアニメの主人公でもないけれど。それでも次の次、ピストルがぽんと鳴ってぐっと砂を蹴る数十秒くらいのロマンスは女子生徒Aの身にも神様が授けてくれるらしい。
「キュートアグレッション」
2023/05/13・2023/06/10加筆修正