「魚住さん」
「おう、越野か」
いつも誰かと連れ立って来ることの多い越野がその日は珍しく一人で店にやってきた。
「今日はいい鰆があるんだがどうだ?」
飲み屋の提灯が徐々に灯り始める時間、腹が減っただろうと今朝の仕入れから旬の魚を勧めたものの、背広を脱いだ越野はビールに肴一品だけを頼んでカウンター席へ腰掛けた。
「すぐ帰りますから」
つき出しを受け取った後輩の声は、心なしか精彩を欠いていた。
「何かあったのか」
「……イヤ何も」
ウソだ。
何も無いなら返事をするまでこんなに間が空くワケがないし、箸に手をつける顔がこんなに険しいワケもない。すぐ帰るなどとわざわざ前置きすることもないはずだ。
「お前は昔から顔や態度に出やすいタイプだと自覚した方がいいぞ」
そう伝えれば口に運んだつき出しを一口ジョッキで飲み下した後、越野はきまりの悪そうな表情でぼそりと呟いた。
「先週、イトコの結婚式があったんですよ」
「ほう」
てっきり仕事の不満でも出てくるかと思っていたが、俺の予想に反して投げかけられた言葉からは話の先が読めない。結婚式でトラブルでもあったのだろうか。
俺の疑問を視線で察したのか越野は続きを話し始めた。
「すげーいい式でしたよ。相手の人も感じ良くて、二人とも幸せそうで……ただ、そういうの見たら色々考えるじゃないですか。こう、自分の事とか」
再びジョッキを軽くあおり、たいして減っていない黄金色の中身へふと目線を下げる。真一文字に結ばれた勝気な口元がやがて穏やかに弧を描いた。
「そしたらやっぱ、この先もあいつと居たいなって思うんすよね」
「
、か」
脳裏によぎる女性の名を声に出せば越野の首が小さく縦に振れる。顔を上げ、カウンター越しに俺を見据えて越野は言った。
「魚住さん」
「なんだ」
「俺、今度
にプロポーズするつもりです」
まだ混み合う前のいつもより少し早い時間帯。誰も誘わず一人で来た理由。今更ながらその真意を俺はようやく理解した。
ああ、コイツは今日これを伝えに来たのか。
「いい頃合いじゃないか。お前らも随分長い付き合いだろう」
そう言いながら吐き出した言葉を自身で噛みしめる。思えばあれから、陵南を卒業してから早十年が経とうとしているのだ。
〝魚住さん! 越野、彼女出来たんですよ。誰だと思います? 〟
キャプテンを継いだ仙道が嬉々として放った一言に鼻を鳴らしたのがつい先日のことのように蘇る。当時越野がいつも目で追っている女子のことはバスケ部のほとんどが知っていたからだ。越野と同じクラスで人当たりのいい、でもスポーツとは縁遠そうな。それが
だった。
「そうか……越野もついに……」
「まだ決まったわけじゃないですよ」
徐々に滲む視界から苦笑いが耳に届く。
「
が断るわけなかろう」
「どうですかね。女ってそういうの分からないとこありますし」
紡がれた言葉とは裏腹にあの頃の面影を残した屈託ない笑顔はいくつか近況を語り終えると足早に彼女の待つ家へと帰っていった。
「プロポーズ」
2023/04/29・2023/05/05加筆修正