背中をつつかれる感覚で意識が浮上する。
開いた視界から少しずつ認識しだす目の前の黒板、先生の声、ノートを取る音、めくる音。それから
「越野君」
自分を呼ぶ小さな声。
振り向けば、声の出処である後ろの席の
が困ったような顔でこちらを見ていた。
「ごめん、シャーペン取ってもらっていい?」
「あー」
ジェスチャーで下を指差す
につられてぼんやり視線を床に落とす。足元に見慣れないペンが転がってるのが見えたので、拾って渡してやる。
「ん」
「ごめんね、ありがと」
飾り気のない青色のシャーペンが手から離れるとすぐに
は下を向き板書を再開した。
今ので多少眠気が覚めたオレも込み上げるアクビを噛み殺し、空白の時間に大発生したミミズの退治を始めるべくノートの上に消しゴムを滑らせた。
月火水木、4日分……と今日の朝練の疲れが乗っかった金曜の授業がオレは一週間で一番キツい。その中でも気だるい雰囲気の中淡々と進む古文の授業は午前中にも関わらず毎回眠くて仕方がなかった。
「じゃあここから読んでください……小佐井君」
先生の声がしてドキッとする。やべ。今当てられた奴、オレの前の出席番号だ。
国語の先生はまず日付と同じ出席番号の生徒を当てる。で、そのまま番号順に当て続けていく――ということは次の音読はオレ。確実にオレの番だ。
一気に冴えた頭から焦りが全身へ広がってどこまで進んだか分からない古文の教科書をすぐさまめくる。
「はい。そしたら続きを、越野君」
「はい」
なんとか直前で読む個所を見つけて事なきを得たが、あと一秒探すのが遅かったらクラス全員の前で赤っ恥かいていたに違いない。
***
「――では、宿題のプリントを配って今日は終わります」
終業のベルが鳴ったのは先生がこう言ったのと同時だった。
途端に騒がしくなった教室で今度は隠すことなく大きなアクビをひとつこいて前の席から回ってきたプリントを受け取る。自分の分を一枚取って残りを後ろの席……つまり
に渡す。
はそれをペンを持ったままの手で受け取った。
「あ」
「なぁに?」
「……なんでもねー」
つい声を出してしまったのは、
の手に握られていたのがネコだかタヌキだかヘンなマスコットのついたシャーペンに変わっていたからだ。授業中に見たあの青いやつは
の机に置いてあるデカい筆箱の隙間から顔を覗かせている。
わざわざ拾ってやったのに使ってねーのかよ。
と思ったけれど、それ以上深くは考えず教科書とノートを片付け教室を出た。
「植草、一緒に食おーぜ」
「越野!」
学食の前に佇む見知った後ろ姿へ声をかけると、オレの顔を見た植草が両手を合わせて頭を下げてきた。
「悪い、今日金貸してくれないか?」
「はぁ?」
「朝母さん起こすの遅くってさ、急いでたら財布家に置いてきちゃったんだ」
「ダセー。自力で起きろよ」
「いや金曜はキツイって」
さっきの授業で船を漕いでた自分を棚に上げて恩着せがましく財布から千円札を抜き取り植草に渡してやる。昼メシを食いに次々生徒がやってくる堂内、くっちゃべってる間にも持ってきたジャージで空いている席を確保するのは忘れない。
「お前朝練はフツーに来てただろ。間に合ってよかったな」
「ホント不幸中の幸いだよ。あと起きるの一秒遅かったら間に合ってなかったかもだけど」
苦笑いする植草と食券機に並びながらさっきのオレみてーじゃん、そう思ってなんとなく授業中の
を思い出した。
わざわざ授業中拾わせたにも関わらず別のシャーペンに持ち替えた
。不自然、と言い切るには乱暴かもしれないが、なんかミョーなんだよな。
そもそも拾ったペンは女子が好んで使うようなデザインでもなかったし、おそらくプリント回したときに持ってた方がいつも使ってるやつなんだろう。
じゃあなんで。心当たりを漠然と探す中でふと一つの仮説が頭をよぎる。
もしかしてオレが当てられる前に起こしてくれた、とか?
国語に関しては誰が当たるかクラス全員が分かってるんだから考えられなくも……や、んなわけないか。普段仲いいわけでもねえのに、もしそうなら相当いい奴じゃん、
。
「お、今日の日替わりマヨから丼だって」
植草の声に遮られてまあどーでもいーやってこの時も思ったけれど。その日からだ、色々とおかしくなったのは。
植草から千円が返ってきた土曜の部活と久々にオフの日曜を挟んで月曜日。
「
ーっ!」
朝練が終わって教室に戻る廊下で聞こえてきた声にとてつもなく心臓が跳ねた。
「おはよぉー」
「ねーねー先週のドラマ見た?」
「トーゼン!最後さ、主人公見つかっちゃったよね!?来週どーなるんだろー!」
後ろから小走りでオレを追い抜いた
は今登校してきたばかりらしく、カバンを持ったまま廊下で友達と話し始めた。よほど好きな話題なのかいつもなのか、身振り手振りが大きすぎてカバンに付いてるぬいぐるみがダムダム振り回されている。こいつ、筆箱だけじゃなくてジェスチャーまでデカいのかよ。そういやシャーペンにもヘンなキャラクターが付いてたけどカバンのあれと
「……越野君?」
そんなことを無意識に考えていると、油断している隙にうっかり
と目が合ってしまった。
「お、おはよー?」
声に出さない「何か用?」が表情から伝わってくる。そりゃそーだろ。たいして仲良くもないクラスメイトに立ち止まってじっと見られたらオレだって不審に思う。
「……はよ」
用なんてない。急に恥ずかしくなって足早に
の前を通り越して教室に入った。
サイアクだ。何やってんだオレは!
そしてこの日以降もそれまで気にもしてなかった練習を見に来る体育館の女子の顔を確認したりだとか、テレビ欄のドラマのタイトルを探してみたりだとか。知らず知らずに
のことばかり考えている自分に気づいたのは火曜、水曜、木曜が過ぎてまたやってきた古文の授業で、今日は当てられる心配ないってのに先週のように
から声がかかるのをほんの少し期待しているのを自覚したからだった。
「ごめんね、ありがと」
たったあれだけの言葉が何度も何度も頭の中で再生されて、まるでボクシングのボディーブローみたいに、じわじわと胸の奥でいつまでも消えないでいた。
おかしいだろ。ペンを拾ってやっただけなのに。
「それでは宿題を配って授業終わります」
昼休みを告げるベルが鳴る中、お決まりの宿題プリントが配られる。一枚取って、残りは後ろへ。
は今週もヘンなキャラクターのペンと一緒にそれを受け取った。
「……なあ
」
「ん?」
「それ、ネコ?タヌキ?」
後ろの席へプリントを回し、前を向いた
へペンを指さし聞いてみる。
「これライオンだけど……」
「ライオンかよ?!」
予想外の解答すぎて思わず大声で返すと、
は目を丸くしたあと、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「うん、かわいいでしょ」
「……分かんねー」
「越野ー!」
オレの声と被さるように廊下からオレを呼んだのは仙道だった。
との話はそれきり、オレは席を立って仙道に近づいた。
「お前、今日も教室で食うの?」
「そのつもりだけど」
「最近学食行かねーのな」
「まあ、ちょっと飽きたってゆーか」
「……ふーん。んじゃ、オレ購買行ってからまたくるわ」
「おー」
仙道を見送り、席に戻ると
はいそいそと弁当の用意を始めている。
背中から聞こえる調子っぱずれの鼻歌が友達への挨拶で消えたタイミングで意味もなく暴れる心臓と共にパンの袋を破いた。
「
聞いて!あたし好きな人出来たの~!」
「この前あんなに泣いてたのに?」
ライオンのアレはともかく、笑った
は結構かわ……悪くねーのかもしれない。
フライデー・ボーイインラヴ
2022/08/05