まるで海みたいだ。陳腐な表現ながらも彼の蒼い瞳を見るたびそう感じるのは、いつだって波が同じ形をしていないように、彼もその時々で見せる顔が全く違うからかもしれない。
「じゃあねシンちゃん、また来るよ」
「おとといきやがれ!秘石はぜってー渡さねぇからな!!」
息子の叫び声をBGMにしてガンマ団の潜水艦へ戻ってきたマジックはまさに優しい父親の顔そのもの。常夏の奇妙な島から艦が離れてもシンタローがどうだった、ああだったと相好を崩して息子への愛情を説く言葉は止まることがない。
「総帥!」
傍に仕える部下達がいよいよ冷や汗をかき始めた頃、別の部屋で任務にあたっていた戦闘服の男が一人、忙しなく彼に近づき目の前にかしづいた。
「なんだ騒々しい」
「たった今、123地区の隊長から入信がありまして」
「……言え」
先ほどまでの柔和な表情から一転、マジックは眉根を寄せて部下を見下ろし続きを促す。その声は低く、冷たい。
「恐れながら申し上げます。『本日、隣国より第三勢力が現れたため地区制圧に難航しており、状況は劣勢。至急増援を要請したい』と」
「フン、役立たずめ」
マジックはそれきり部下の真横を通り過ぎる。革靴が響くたびピリピリと空気が張り詰める中、声にならない声で部下が立ち上がり「総帥」と一言呼び止めた。
「あんな片田舎にこれ以上割く人員はないよ」
「では、残っている者には撤退命令を……」
「今の人数でやれと言っているんだ。ガンマ団の旗を立てるまで二度と顔を見せるなと伝えておけ」
そう吐き捨てたマジックの表情は人の上に立つ総帥としての――いや、『覇王』の顔だった。
そして徐々に大きくなる靴音、止まったのは、私の前。
「待たせたね。行こうか
」
この潜水艦の中で一番豪華で広い部屋。いくつかのセキュリティを抜け、総帥室として使っている部屋へ一歩足を踏み入れてしまえば私とマジックは腕を回してお互いの息遣いを振動で感じる。息子に見せた柔和な顔も、部下に見せた冷ややかな顔も見る影はなく、私をかどわかすのはじっとり熱を孕んだ『悪いオトコ』の表情だ。そして、私の目の前にいる大人としても男としても円熟した人間が夢中になって唇を貪っている対象が、彼の息子とさほど歳の変わらない自分のような小娘だということに得も言われぬ陶酔感を覚えるのだった。腰を抱く強い力、赤い軍服の上からでも分かる逞しい身体、ほんのりと漂ってくるフゼアの香り。無遠慮に突き付けられる官能的な要素に思考が溶かされてゆく。くんずほぐれつ部屋の奥へ移動するが、その最中ちょうどテーブルに手をついた拍子に卓上のグラスを倒してしまった。彼の部下が気を利かせて用意してくれたのだろう、二客分の白ワインがあっという間にテーブルの上に広がっていった。
「あっ、ごめんなさい」
「いいさ。怪我はないかい?」
「ええ」
私の濡れた手を取って唇を寄せるマジック。私はそのまま彼の髪をくしゃくしゃと搔き撫でた。
「わたしに洗礼でも受けさせる気かい」
軽く笑ってマジックは私の顔を覗き込む。
「髪、全部下ろしてる方が好きなの。もう二人きりなんだからしゃっちょこばらなくたっていいでしょう?」
それに何万回洗礼を受けたって貴方は独裁者にしかなりえないわ、そう伝えると彼はさらに声を立てて笑った。愉しげに仰いだ表情もセクシーだった。
「否定はしないよ。わたしは欲張りだからね。欲しいものはどんな手段を使っても手に入れたいし、大事なものは誰にだって渡したくはない。……君こそ洗礼を受けて改名したらどうだい?」
「例えば?」
「わたしと同じ名字に」
「仕事上結婚はしないんじゃなかったの?まさか娘になれ、なんて言わないわよね」
「言っただろう?大事なものは絶対に手離したくないんだ。当然その中に君も含まれている」
私を抱き上げたマジックは大人二人が悠々と横になれる大きさの黒いシーツに私を沈める。いつの間にか器用に明かりを落とした彼から降り注ぐキスの花束を受け止めて、弔砲の如く鳴らされる「
」の声を耳にする。そうして彼の唾液に溺れながら私は蒼色の時間に流されてゆくだけ。
「君が望むなら、どんなものだって捧げるさ。ドレスも指輪も花も……名前も。だから
、いつまでも傍にいておくれ」
「それはすごく悲しい考えよ」
耳元で漏れる小さな声は波が寄せれば消えてしまいそうな儚さで、私はその太い首にがっしりとしがみついた。
「貴方が何者でも、何者でなくても。私はいつもここにいるわマジック」
「ああ、もう一度名前を呼んでくれないか
」
ねえマジック知ってる?私が望むのは高価な贈り物じゃなくて、紙切れ一枚で交わされるチャチな契約でもなくて、その縋るような瞳を見せるのは世界中で私だけっていう実感だけなの。
ベリアル・アット・シー
2021/03/16