「眠れませんか?大尉」

何度かに一度は虫の居所が悪くて殴られる。
だけど顰めた眉をほんの少し和らげて私を見る表情を知っているから、今日も私はベッドの上で彼の横顔にこう問いかける。
こちらを向いた大尉が返事代わりに頬へ触れた掌はひんやりとしていた。

大尉がニュータイプ研究所にいた頃を私は知らない。
『シャア再来計画』と称してどんな強化人間の訓練を受けたかも断片的な情報と憶測でしか知り得ないけれど、大尉は今なお軍から処方される多くの薬が手放せない。
「今夜は冷えますね。温かい物でも用意しましょうか」
体を起こした素肌は少し肌寒い。
だから安定剤とか、睡眠薬とか。寝る前に飲んだそういう類の効きが鈍いのかもしれない。
大尉が小さく頷いたのを見て、気休めでしかないと分かっていながらもキッチンに並べたいくつかの缶の中からカモミールティーを手に取る。
こんなもので眠れる位なら最初から薬なんて必要無いのに。

お湯の準備をしていると程なくして聞き覚えのある音色が聞こえてきた。大尉の趣味のクラシックだ。枕元にあるスピーカーが部屋へ注いだのはスローテンポのワルツだった。

1 2 3

つい足元がステップを刻んでしまうのはこの曲がモナハン大臣の……つまりジオン共和国の公的なパーティーへ初めて出席するにあたってダンスを仕込まれた際、幾度となく聞いたナンバーだから。

1 2 3
1 2 ……

ケトルのスイッチを入れた振り向きざま、目の前が紫色でめいっぱいになる。
「上達したじゃあないか
「お陰様でコーチが優秀なものですから」
いつの間にかベッドを抜け出た大尉に誘われるままキッチンを後にする。私は紫のガウンにただ身を任せるだけ。
並べた枕を通り過ぎ、リビングの中央まで来ると私の手を握り直した大尉は三拍子に乗ってステップの続きを踏み始めた。

1 2 3
1 2 3

夢中になって踊れば踊るほど、薄暗いこの部屋はカクテル・シェーカーのようにすべてをかき混ぜてゆく。
体温と体温。音楽と時間。呼吸と吐息。

いっそこのまま私達も溶け合って一つになれればいいのに。
一つになりたい。離れたくない。
こんな気持ち、出会わなければきっと一生知ることはなかった。
ゾルタン・アッカネン
貴方と出会わなければよかった。
そうすればもっと楽に生きて楽に死ねたのに。
いつか貴方から首輪を外される日を怖がることだってなかったのに。

「大尉。少し休ませて下さい」
「駄目だ」

ラベンダーの寝香水が冬と獣の香りですっかり掻き消された時、汗ばんだ首筋の向こう側には夜と朝のカクテルがカーテン越しに淡い影を落としていた。
カクテル・ワルツ
2024/10/16