仕事がいわゆる繁忙期、というやつに突入し、いくら片付けどもデスクに積まれる書類は減るどころかかさむ一方。
日に日に膨れ上がる残業時間に押し潰されそうになりながら自宅と会社を往復するだけの毎日が続く中、突然上司から一日の休暇を言い渡されるという僥倖が
に舞い降りた。
朝、けたたましいアラーム音に叩き起こされることもなくいつもよりゆっくり目を覚ます。
時間に縛られない睡眠のなんと幸せなことか!
すでに太陽は真上に昇り、世のオフィスでは昼休みを告げるチャイムが鳴っている時間にも関わらず、
は未だベッドの中でうずくまり堕落の限りを尽くしていた。今日は一日中こうして過ごしていようか。悪魔の囁きが
をそそのかす。だが、コロリと寝返りをうてば窓から見えるのはぽっかりと漂う浮雲とそれをすっぽり食べてしまいそうなほど青く晴れた空。見るからに清々しい外の陽気に、
の欲求がむくむくと頭をもたげた。
そういえばそろそろ髪も切りたいし、買い物もしたい。ネイルの付け替えも行きたいし、どこかのスパでリフレッシュするのもいい。
悪魔を追い払ったのは目にしみるほどの青空だった。
ベッドから這い出した
は身支度を済ませ外へ飛び出したものの、やりたいことが次々に湧きだすがために目的地を絞りきれずにいた。結局手持ちぶさたに繁華街の方へ歩いていると、道端でビラ配りをしている青年から一枚の紙を手渡された。かわいいイルカが描かれたその紙をよくよく見てみると、この街に新しくオープンしたという水族館のお知らせ。
これだ!
の心は瞬時にに水族館へと引き寄せられた。ここのところ感じることのなかった高揚感を胸に、フライヤーに記載されている地図を見ながら
は目的地へと踵を返した。
キラキラと輝くような空。行く先で待っているのはこの空に似た色の海中ジオラマ。まだ見ぬ青に想いを馳せながら
の気持ちは最高潮に達していた。
そんな時。
ガコン、と急に足下から鈍い金属音が聞こえたかと思えば地面の感触が消え、青空が一瞬にして暗転したのだった。
「チャオ!
ちゃん!」
すぐにやってきた衝撃は微々たるもので、名前を呼ばれた
が目を開けば大振りのシルバーチャームがキラリと揺れるのが見える。顔を上げると三日月型に漏れる光がオレンジ色のアイマスクを照らし出していたが、三日月はすぐに新月となり、あたりは暗闇に包まれた。
「マンホール落とし成功ー」
「へ?ま、ま、マイキー?!」
「ピンポーン」
「もーバカー!何?!びっくりしたじゃない!」
暗闇に少しだけ目が慣れると、目の前にいるミケランジェロによってマンホールの下へ落とされたのだと、今の自分が置かれている状況が理解できた。
「ごめんごめん!でも
ちゃんの信号が会社と違うとこに移動してたから、デートに誘うのは今しかないって思ってさ!あ、これはドナのパソコンに映ってた信号ね。僕が自主的にストーキングしてるわけじゃない、僕は無実、OK?」
「はいはいおーけー。悪いけど私急いでるからじゃあね」
さらさらと言葉を紡ぐミケランジェロを軽くいなして
は彼の腕の中からすり抜けようとする。いつもの雰囲気と違い何か期待に満ち溢れている様子を感じとってミケランジェロの表情がわずかにぴくりと動いた。
「
ちゃん、誰かと待ち合わせ?」
「ううん、残念ながら一人よ」
「なーんだよかった、彼氏とデート、とか言われなくて!どこ行くの?」
「水族館!さっきこれ見つけてね」
は手に持っていたフライヤーをミケランジェロに渡して見せた。ミケランジェロはフライヤーにしばし目を通すと、整った顔をにっこりと崩した。
「
ちゃん、水族館もいいけどもっと楽しいことしない?」
「えー、たとえば?」
「ニューヨークの地下で急流滑り」
「はぁ」
「僕らのスーパーカーでドライブ!」
「へー」
「なんなら、もっとアダルティなことだって……」
「帰ろっかな」
「わー!うそうそ!冗談!」
短時間でコロコロ様子を変えるミケランジェロを見て
はクスリと笑みをこぼした。それを受けてミケランジェロの表情に安堵の色が戻ってきた。
「だって、街の水族館じゃ僕一緒に行けないよ。デート出来ない」
「そうかもね。でも今私の頭の中は水族館でいっぱいなの。また今度遊びましょ。
閉館時間があるから離して?マイキー」
はやんわりと地上に出たい旨を伝えるが、抱きとめる腕にぐっと力を込めてミケランジェロは反対の意を
に示した。
「
ちゃんってば最近全然遊びに来てくれなかったじゃん!何日も会えなくて僕の胸は寂しさで張り裂けそうだった!この苦しみ、君は知ってるかい?僕は噛みつきカメだ、僕を置いて水族館に行こうったって簡単には離さないぞ!」
精一杯背伸びをしても、彼はティーンエイジャー。他の兄弟と比べれば小柄なものの
にとっては大きな体躯がまるで駄々っ子のように自分にしがみついてくる様子がなんだかちぐはぐで
には可愛らしく思えてきた。可愛い、なんて伝えてしまえば彼は怒るだろうが。
熱烈なミケランジェロの申し出に折れた
は小さなため息を一つ漏らした。
「ねえ、マイキー」
「あー聞こえないー」
「じゃあ、その急流滑りとやらに連れてってもらおうかしら」
いや、『折れた』のではない。
の心を引きつけるミケランジェロの求心力が水族館に勝ったのだ。今。
はミケランジェロの首に腕を絡ませ、きゅっと身を寄せた。
「聞こえないったら聞こえな……えっ、いいの?」
「水族館に行けないって言ったのマイキーじゃない。デートコース、呑んであげるわ」
「……
サイッコー!よし、しっかり掴まっててよ!」
屈託無い笑顔を満開に咲かせたミケランジェロは一度
を抱きしめ直し、颯爽と地下水路をどこまでも滑ってゆくのだった。
空の青さに導かれ出てきたが、結局は暗い地下で過ごす休日。だが、
は先ほどまで歩いていた地上よりも暗い地下にある眼前の青色に心が満たされていた。なぜなら窓の外の青空や、行こうと思っていた水族館の水槽よりも、もっと綺麗なスカイブルーがすぐ傍で
を優しく見つめていたから。
スカイブルーに呼ばれて
2015/03/17 2019/11/04加筆修正