地下鉄の階段を上がったと同時にしまった、と思った。
空から止めどなく落ちる粒はコンクリートを濡らし、ぴちゃりと
の足元で跳ね上がる。予期せぬ雨、と言いたいところだが実はそうではなかった。なぜなら朝、分厚い雲が太陽を隠しているのを
は見ていたから。にもかかわらずバッグだけを引っ掴んで出勤を急いでしまったのは紛れもなく昨晩夜更かしをしたツケのせいだ。もう1時間、いや、30分早く寝ていればと昨日の自分を呪い、
は大きく肩を落とした。
今居る3番出口から家まで徒歩で約15分ほど。脇の大通りに点在するタクシーに目が留まるが、給料日前のお財布にはかなりの痛手だ。
はそっと肩に掛けたブルーベリー色のバッグを確認した。
本日持ち帰りの書類はない。
帰宅途中に本や雑誌も買っていない。
ついでに靴は皮肉にもローヒール。
考えのたどり着く先は、濡れて帰ること。意を決し、バッグをぎゅっと引き寄せいざ屋根から飛び出さんとした
の第一歩は……ポケットで震える携帯に阻まれることとなった。
「もしもし」
「ボンソワール、マドモアゼル。元気?調子はどうだい?」
が通話ボタンを押すと、聞こえてくるのは甘さを帯びた男の声。気取ったように話しているこの声の正体を
はよく知っていた。
「ええ元気よ、調子もまずまず。でも今気分最悪なの、ドナ」
「へぇ、そうなんだ。それって傘持ってないからどうやって帰ろう~いっそ濡れて帰っちゃおうかな~って3番出口で参ってるせい?」
声の主、ドナテロはピタリと
の状況を言い当てるので
は目を丸くした。
「な、なんで?近くにいるの?」
「車道を見てごらんよ」
ドナテロに言われるがまま、
は先ほど見た大通りにもう一度注意を向ける。しかし変わった様子はない。得意げなドナテロの声が続けて
の耳元から漏れた。
「
違う違う。反対だよ」
ハッと気付いた
が今度は大通りの反対にある細い路地を見やると薄暗がりから車のライトとおぼしき灯がチカチカと点滅した。
「正解。タートルズタクシー、乗ってかない?」
いささか派手な外装のワゴン車に駆け寄ると、さらに派手な作りの車内から
を迎えたのはドナテロ一人だけだった。
「言いたいことや聞きたいことはいろいろあるけど、とにかくありがとう。助かったわ」
「どういたしまして」
自分の居場所が正確に分かったこと、ドナテロがここへ来たこと、尋ねたってどうせ彼は教えてくれない。
はそのことをすでに学習済みだったのであえて答えを問いたださなかった。過去にも
が困っている時不自然に現れるような経験が何度かあったが、彼の類い稀な頭脳とガジェット技術でそれを可能にしたのだろうと、その程度にしか考えていなかった。具体的にどうやっているのかは検討もつかないが、これも少しコミュニケーションに不器用な彼なりの優しさだと気付いてから、そのくらいの確信で
は十分であった。
「みんなは?」
「レオは先生と修業中、ラファはテレビ、マイキーはソファーで雑誌読んでた」
「ふーん」
の家を目指して彼らを乗せた車が緩やかに走り出した。車内には窓を叩く雨粒の音、タイヤが水を切る音、いつもの騒々しいBGMと打って変わり静かに流れる
お気に入りのアルバム曲。
「傘どうしたの」
「誰かさんが昨日夜中に電話してくるから寝坊して持っていく余裕なかったのよ」
「なんだよ。僕のせいって言いたいわけ?せっかく
の好きなドラマの再放送やってるよって教えてあげたのに」
「それは……感謝してる。ね、アレ面白かったでしょ?」
「そうだね。最後まで
の実況解説付きで余計に楽しめたよ」
少し言葉を交わしているうち、すぐに
の住むマンションが見えてくる。元々徒歩で通っている距離だ。ものの数分で車は目的地に到着した。
「
着いたよ」
「ありがと。今度ピザ持って遊びに行くわ」
は降りようとドアに手をかけるが、開かない。
「ドナ、ロック」
「ちょっとお客さん。お代は?」
「はぁ?」
は予想外の言葉を投げかけられ素っ頓狂な声を上げた。驚く
対称的に至って冷静な様子のドナテロはわざとらしくふぅ、とため息をついて続けた。
「電話で言ったよね。これはタートルズ『タクシー』、お代はちゃーんと払ってもらうよ」
「おっお金取ろうっていうの?けちんぼ!」
「なにもお金とは言ってないだろ。別のもので払ってもらって構わないよ。例えば」
「例えば?」
「たとえば……」
少し言い淀んだドナテロはシートにきちんと座り直すと、まっすぐ窓の外を見て(つまりは
を見ずに)答えた。
「
のキス、とか」
しばしの沈黙の後、ドナテロはちらりと横目で
を見てから声を張り上げた。
「ちなみに!無賃乗車しようとするマナ悪客には……おっ、お仕置き、だから」
が、段々と尻すぼみになり、なんとか
まで届いたものの最後は今にも雨音に消されそうになっていた。
下手くそな甘え方。
でもそんなところさえ好きだと思うのは惚れた弱みか。
は己の思考回路に心の中で苦笑しながら、そっと身を乗り出し彼に唇を寄せた。小さく二回ついばんだ後、額をコツンとぶつけて
は口を開いた。
「ね、明日も頼める?タートルズタクシー一台。今日と同じ3番出口で、午後8時に」
「えっ?」
「私明日はちゃんとお洒落してくるから、西の橋をぐるっと回ってここまで送って欲しいの」
つまるところ、この予約はドライブデートの約束。その意味を理解したドナテロは大きく首を縦に振った。
「もっ、もちろんさ!」
「じゃあまた明日ね」
「名残惜しいけど、うん。また明日」
ドナテロがドアのロックを解除すると今度こそガチャリと音を鳴らしてドアが開いた。一気に外の冷たい空気が車内へ流れ込んでゆく。
「あっ、待って」
車から降りる寸前の
をドナテロが呼び止めた。
が振り向くと同時に強い力で腕を引かれ、先ほどと同じ温もりが再度チュッと音を立てて
の唇を掠めていった。
「へへ、さっき二回もらったから、お釣り」
は顔を真っ赤にして笑うドナテロをからかってやりたかったが、自分の顔もやたらと熱っぽいことに紙一重で気づき、もう、と、意味をなさない抗議を口にするしか出来なかった。
secret taxi 20:00
2015/03/08 2019/11/04加筆修正