愛用のネックレスを引き千切られても。
大事にしていた口紅を折られても。
「そういう人」だと承知の上で彼の傍にいることを望んだのは私自身。何度も己に言い聞かせ、諦めるのにも慣れたつもりでいたけれど。
「俺に指図しようってのか!!!」
誰かのために作った食事をその相手によって台無しにされた時、他とはまた違う質感のやるせなさを感じるのだと、宙を舞ったスープを見ながら初めて知った。

落ちた場所がここでよかった。
あと少し大尉の振り上げた手が強ければ、先週誂えたばかりの無地のラグに模様が入ってしまうところだった。
なんて考えながらカップの破片をひとしきり拾い終えるも、床の小さな水たまりが目に入って冷えた心の継ぎ目から血が滲み出す。
なんてことない。気に入らないことがあるとカッとなって手が出る、いつものやつ。大尉の癇癪には幾度となく付き合ってきたはずなのに、どうにも今回はこぼれたわだかまりを拭いきれないでいる。
早くふき取ってしまおう。
床に膝をつきタオルを滑らせたところでソファからずっとこちらを見ていた大きなシルエットが鼻歌交じりに近づいてきた。
「おーよしよし。どうした、ん?怒ってんのか?」
「いいえ」
薄ら笑いを湛えて目の前に屈んだ大尉は片手で私の頬を包み込んだ。先日ぶたれた箇所をこねくり回され顔をしかめると、床へ向けていた目線を冷たい手のひらで強制的に上げさせられた。
「フッ……おっかねえ顔」
誰のせいで!
まるでこどもの屁理屈みたいに言い捨てられ、どちらかといえば悲しみに近い感情を抱いた胸中から今度はふつふつと怒りが湧いてくる。
誰のせいで床が汚れて、スープカップが割れて。
それ以前に誰の口に合わせてあのスープから好物のセロリを抜いたと……いや、これは私の勝手な判断だから彼を責めるのはお門違いだけれど。でも。
「大尉のお気持ちを汲めず、差し出がましいことを申しまして申し訳ありませんでした」
どうせ不満を訴えたところで無駄だと分かりきっているから、全て飲み込んで立ち上がり、洗面所に移動することにした。スープを吸ったタオルをゆすぐ間くらいはクールタイムが欲しかったけれど、短いその距離を後ろから同じだけ足音が付いて回った。
「なんですか」
「膨れっ面してる部下の機嫌を取ってやらないとなぁ」
洗面台の鏡から見切れる位置でひと度壁に肩を預けた大尉は、私が両手を濡らしたところをしっかりと見届けてから真後ろまで近付いて腰に腕を回してきた。
温かな湿り気にざらりと耳元を舐め上げられ、思わず体が震えてしまう。鏡越しに見えた薄灰色の瞳は満足気に半月を描き、大尉は次に服の上から私の身体をまさぐり始めた。
傲慢な男。
これが“ご機嫌取り”だというのなら、自分のスキンシップが当然私にとって報酬になると疑わない彼の思考回路は傲慢としか言いようがない。
なのに少しずつ下へ降りてきた唇は首筋の辺りで時折甘やかな疼きを身体に灯して、結局それが正解だと思い知らされる。
「あっ、大尉、そこ……」
身をよじっても後ろから回された腕が逃げることを許さない。好き勝手与えられる艶っぽい刺激の波に耐えながら、引き潮で薄く開けた目に飛び込んできたのは鏡に映った自分達の姿だった。
太い首、腕、指……大尉の輪郭は自分より一回りも二回りも大きくて、どの要素をとっても精悍な大人の男のものでしかない。
なのにどうだ。自分へしがみつく彼の姿はまるで母親に許しを請うこどものようじゃないか。
なんだ、こどもみたいじゃない。
貴方が私に許されたがってるんじゃない。
そう気付いた時、生まれた何者かがさっきまでの悲しみも怒りも、違う色へと塗り替えてしまうのだった。
「ん、ふふ、あはは!」
耐え切れず笑い声をあげると大尉はそれ以上責め立てることはなく、あっさり手を止めた。
「大尉。任務明けですから、お疲れで食欲がないんですよね」
濡れた手を拭いて大尉に向き直り、首にかじりついて少し長めのキスを贈る。全部振り出しへ戻すように。出来るだけ優しく。
「でも夜の分のお薬がありますから。一口でいいので何か召し上がっていただきたかったんです」
「分かっているさ」
「スープがお嫌なら、何ならココに入れてくださいますか?」
「嫌とは言っちゃいない。
お腹をつついた手を捕らえられ、また屁理屈をこねる大尉から嘘みたいにうんと柔らかなキスが返ってきた。

ネックレスを失くしても、口紅を失くしても、そんな哀しみさえ透き通ってしまう程に貴方を愛せずにはいられない。
それはもう貴方が私を手放せないのと同じように。

ゐ 愛しいのと憎いのは紙一重