最初は旅行のついでくらいの気持ちだった。日本を離れ、祖父の知り合いである団吉さんの手伝いをするようになって、私は一人のボクサーと出会った。「狼」と言うには人懐っこい笑顔を見せる彼はいつもどことなく寂しそうな色を瞳の奥に湛えていて、この人が本当に心の底から笑ったら一体どんな顔をするんだろう、日に日にそんなコトを考えるようになった。その瞬間にたどり着くための力になりたい。気がつけば米国でいくつもの季節が過ぎ去っていた。
だけど道のりは決して平坦ではない。この国の「自由」とは彼にとって温かいスープでも夜道を優しく照らす満月でもないから。昨日の試合だってそうだ。素人目から見ても試合運びは終始ヴォルグさんが制していた。本来なら3R……いや、ヴォルグさんのリバーブローが決まった2Rで終わっていた試合。しかしそうならなかったのは明らかなダウンも執拗にスリップだと判定し、そのくせヴォルグさんの不慮のバッティングなどには厳しく騒ぎ立てるレフェリーのジャッジのせいだ。辛くも7RでKO勝ち出来たものの、浮かない表情でリングを降りたヴォルグさんの頬を伝うしずくは汗だったのか、それとも。
こんなのは今に始まったことじゃない。この土地では余所者の活躍より地元のヒーローの勝ち星が望まれるのだ。今朝のスポーツ紙に小さく書かれた「HAVE A NARROW ESCAPE(九死に一生を得る)」などという見出しをふと思い出すと目の奥が熱く込み上げてきた。

ぽたり、と落ちる雫と同時に声をかけられ、はっと我に返る。いつの間にか仕事の手が止まっていたことに気が付き、途中だったジムの備品チェックを再開しようと目線を上げれば目の前には今日見るハズのなかった傷だらけの顔が驚いた表情で立っていた。
「ヴォルグさん?!」
試合のあった昨日の今日でもちろん練習などあるワケもなく、家で静養しているハズのヴォルグさん。どうしてジムに?私が聞くよりも早く、ヴォルグさんは遠慮がちに口を開いた。
「あ……昨日のビデオだけ取りに来たんだけど、ダンが呼んできてくれって」
「そ、そうでしたか。わざわざありがとうございます」
「待って」
逃げるようにその場を離れようとするが、伸びてきた大きな手に捕まえられる。ヴォルグさんは見開いた目を今度は悲しそうに歪ませ、私の頬にそっと触れた。
「どうしたの?」
「いえ、これは……」
決して問い詰めはしないがヴォルグさんの離れない指先が私の返事を暗に強請る。しばしの沈黙を経て、根負けした私は明かすつもりのなかった胸の内をひとかけらだけ彼に渡してみた。
「悔しくて」
「悔しい?」
「ヴォルグさんは技術も実力もあるすごいボクサーなのに、それが多くの人に正しく伝わっていない気がして。それも昨日みたいな、あんな卑怯なやり方のせいで。そう思うと悔しくなってしまって」
。ありが……いや」
『ありがとう』あとに続いたのは久しぶりに聞いた日本語。わざわざ私の故郷の言葉に言い直す優しさが胸にしみて軽く笑うと、ヴォルグさんもほっとしたように笑顔を見せてくれた。
「米国で復帰すると決めた時点で試練は承知の上さ。でも、味方がいないともっと辛いから……これからも応援してほしいな」
応援。
「もちろんです。それくらいしか私には出来ないですから」
その言葉は人知れず私の心をちくりと刺してくる。
私はライセンスを持っていないただのクルーで、こと試合に関しては観客席から見ているだけの一人に過ぎない。いくらリングの外から応援したってそれでヴォルグさんの呼吸が整うワケじゃない。腕が増えるワケでも相手のパンチの威力を殺せるワケでもない。そんなの何か意味あるのかなってずっと思っていた。先ほど言った「悔しい」の理由は半分で、ヴォルグさんのサポートがしたくて今も団吉さんのお世話になっているくせに、何も出来ない自分のコトが本当は一番惨めで悔しかった。
「じゃあ私、団吉さんのとこ行ってきます」
「待って」
今度こそ部屋を出ようとするが、ヴォルグさんは再度引き留めてくる。話は済んだと思っていた私は疑問を目で投げかけると、微笑ともとれるため息と共に腕を引かれたのち、いつもより距離の近い唇がゆっくりと動いた。
「気が付いてないようだからに二つ、教えてあげよう」
「なっ、なんですか?」
「一つ、キミはウソをつくのがすごくヘタだというコト。そしてもう一つ、ボクにとってキミの応援は誰にも代わりは務まらない大切なモノだってコト」
「……え?」
の声がボクを起き上がらせてくれる。腕を振り抜く力をくれる。試合中どんなに苦しい展開でもの前で情けない姿は見せられないって、そう思うと一人じゃ出せない力が湧いてくる。だから

わ 忘れないで

ちゃんと届いているって」
眩しそうに細めた蒼い瞳には一体どこまで見えているんだろう。響いた声があまりにも優しくて、私はたまらずまた少しだけ泣いてしまった。