街を彩る華やかな灯りも徐々に消えゆく25日の夜。暗い車内に浮かぶデジタル時計の時刻は23時に差し掛かっていた。
配達を終えた木村はその足で
のマンションの下へ車を停め、11桁の番号を携帯電話へ打ち込んだ。
「木村さん?」
何コールかの後、耳に届いたのは少し眠そうな
の声。
「あ、遅くにゴメンな」
「いえいえ。どうしました?」
「いやー、今家にいるのかなーって思ってさ」
そうですよ、と肯定の返事が戻ってくると車の背もたれに体を預けた木村は一呼吸置き、鳴り響く心臓の音を悟られぬよう平静を装って声を作る。
「この後ちょっとだけ時間ある?」
「えっ」
「いや、忙しいなら全然」
「……あっ!ちょ、ちょっと待ってください!」
すると慌てた様子の
が声を上げたのを最後に電話はぷつりと途切れてしまった。木村はすぐにかけ直すが応答はない。
そもそも今日、木村と
は会う約束をしていたわけではなかった。
木村にとってこの時期は家業の花屋がクリスマスに正月にと配達やアレンジ、店のディスプレイ変更でてんてこ舞いだし、今まで別段”特別な約束”を交わす相手もいなかったため、それなりの歳になってからは自然と店を手伝うのが当たり前になっていた。しかし、連れ添って街を行き交うカップルや花を予約しにくる客の幸せそうな顔だけでなく、鴨川ジムではトミ子と過ごす夜に鼻を膨らませる青木、真っ赤な顔で久美に渡すプレゼントの相談に来る一歩まで目の当たりにするとうらやましい気持ちが起きないわけではない。自分だって少しはロマンスの真似事を味わいたい。そんな思いが日に日に募りついには
のマンションまで乗り付けたのだった。今日、一目会いたかった。それがたとえ一方通行の気持ちかもしれなくても。
木村は考える。
は家にいる、とは言っていたが一人だとは言っていなかった。もしかすると部屋で誰かと一緒に過ごしているのかもしれない。家族とか、友達とか。もしくは気のある自分の知らない誰か……男、とか。そう浮かんだとたん黒い感情がどろりと木村の手を滑らせ、勢いよく車から飛び出したが刺すような真冬の外気に触れてふと我に返る。たとえそうだとしてもただの「後輩の先輩」である自分に口をはさむ権利はない。
「何やってんだオレは」
大きく吐き出した息が白く立ち上った。
完全に沈黙した携帯電話を持ち直し、もう一度だけ電話をかけ直してそれでも出なければ帰ろう。そう言い聞かせて耳に当てた。
「木村さん!」
せわしない足音と同時に自分を呼ぶ声が聞こえたのは耳元とは全く違う方向からだった。木村が振り向くと、マンションの玄関から駆け寄ってくる華奢なシルエットが一つ。
「
ちゃん?!」
「もしかして……って思ってベランダ出てみたら車が見えたので」
息を切らせて木村の前で立ち止まった
は前髪を耳にかけてにこりと笑顔を見せた。
「あ、木村さん。メリークリスマス」
「メリークリスマス」
木村はナビシートに積んでいた小さい紙袋をさっと取り出した。
「今日来たのはこれ。渡そうと思って」
「もしかしてクリスマスプレゼントですか?」
「まあそんなところ」
「わぁ、嬉しい~!」
木村から手渡された袋を両手で受け取った
は深々と頭を下げた。
「
ちゃんにはいつも世話んなってるからよ。休みの日もあちこち連れまわしちまってるし、試合も応援来てもらってるし……」
突然の訪問に正当性を持たせるべくあれこれ並べたてた言葉の一つ一つに
はにこにこと頷いていて、木村は自分の言い訳がましさにはたと気が付き口を閉じた。
「ま、なんとか当日に渡せてよかったよ」
「ありがとうございます。お忙しいのに、なんだか急いで来てくださったみたいで」
「ん?」
「ほら、今日はいつもの車じゃなくてお店のですし、それに」
の指が木村の胸をトンと小突いた。指し示すのは防寒着の下に着込んだエプロン。ちょうど指が置かれたあたりにはしっかりと「KIMURA FLOWER
SHOP」の文字が主張されている。
「格好もお花屋さんモードだったので」
「げっ」
木村は愛想笑いを浮かべながらそそくさとエプロンを外し、ついでにズボンのポケットにねじ込んでいた軍手もまとめて車内へ投げ入れた。
「せっかくのクリスマスなのにカッコつかねぇなこれじゃ」
「そんなことないですよ。嬉しいです」
車のドアを閉めた木村に入れ替わって今度は
が手を伸ばした。
「で、実は私も同じこと考えてて」
木村の前に差し出されたのは赤と緑の包装紙でラッピングされた化粧箱だった。
「お花屋さん忙しいって前に言ってたから今度渡そうかなって思ってたんですけど会えてよかったです」
「これオレに?!」
「はいっ」
「さ、サンキュー」
しんと降りてくる沈黙の中で、お互い手に持ったプレゼントの包みがかさりと音を立てる。次の言葉を探しあぐねる木村の物憂げな視線と、離れがたいと言わんばかりの寂しそうな
の瞳が冷えた空気の間で絡み合った。用は済んだ。あとは『また今度』と手を振るだけ。少し先の未来が分かっているからこそ二人はその場を動けずにいた。
「あ、えっと」
落ち着かない様子で指先を弄ぶ
からまた一つ、白い息が暗夜に溶けてゆく。
「木村さん、チーズケーキはお好きですか?」
「へ?」
「あのですね。クリスマスだし、と思って自分用においしいとこのやつお取り寄せしたんです。ホールで。よかったら食べていきません?」
「マジで?いいの?」
の首が大きく縦に振れた。
「ケーキかぁ。朝から仕事と配達で全然それどころじゃなかったからなぁ」
昨日から今日にかけた殺人的なスケジュールを思い出すと、過ぎたことながら木村は胃のあたりが重くなるようだった。
「つっても毎年うちはそんな感じだけど」
「なら今年はクリスマス、やりましょう」
「ありがとな」
手元の時計に目を落として苦笑する木村の横で
も時計を覗き込んだ。
「今何時ですか?」
「んー、15分ちょっと前」
「大丈夫です。10ラウンド試合するより時間ありますよ」
小さくシャドーボクシングをして見せた
が木村へ顔を向けた。
「ね?」
「違いねぇ」
そう言って笑いあった二人は抱きあう胸の熱い鼓動を知らぬまま、マンションの中へ入っていくのだった。
そ それは難しいことじゃない
はずだ。
「ホントに部屋、入っていいのかよ」
「……木村さんは特別です」
クリスマスを謳歌することも、静かに静かに伸ばした赤い糸を結ぶこともきっと。