木村さんのお家があるさくら商店街の入り口でアーケードの柱に寄りかかり携帯へ視線を落とす。メールも着信もいまだ無し。ディスプレイに並んだ4つの数字はすでに約束の時間から10分後を指していた。
ここの商店街にあるお蕎麦屋さんがおいしいと評判らしく、ランチに誘ってくれたのは木村さんからだった。約束をすっぽかすような人でもないし、昨日も電話で待ち合わせの時間と場所を確認したから思い違いをしているとも考えにくい。お店忙しいのかなぁ。そんなことを考えながらぼんやりしていたら急にスカートの裾が何かに引っ張られた。
「なにしてるの?」
その感触の先にはちっちゃな握りこぶしがあって、更に目で辿ると小学生、いや、もっと小さいかもしれないおさげの女の子が私を見上げている。辺りを見渡しても親御さんらしき人はおらず、とりあえずしゃがんでその子の話に付き合うコトにした。
「えっと……おともだちを待ってるの」
自分で言いながら違和感甚だしいがグラデーションの途中を言葉で表すのは難しい。今の木村さんとの関係にはきっとどんな言葉も馴染まなくて、それでも突然出会ったちびっこへ説明するならこうなるだろう。
「商店街のひと?」
「うん、お花屋さんのお兄さんなんだけど」
「お花屋さんって……あ!達也くんだ!」
どうやら木村さんのコトを知っているらしい。その子は嬉しそうに木村さんの名前を零しぴょんと跳ねて私へ近づいた。
「達也くんのお家知らないの?教えてあげよっか?」
そしてスカートを引っ張った握りこぶしが今度は私の手を掴んだ。ぐいぐいと誘う先は商店街の中だ。
「ここで待ち合わせしてるから大丈夫だよ」
「はやくー」
「まっ、待ち合わせしてるから……!」
下手に動くと木村さんと入れ違いになってしまうかもしれない。付いていく気は無かったハズなのに、キラキラの眼差しと温かい手の感触には物理的な力とは別の何かが宿っていて、それがいつの間にやらじわりじわりと私を立たせ、歩かせ……結局手を引かれるがまま木村さんの家まで向かうことになってしまった。

「……それでチエちゃんは『達也くん』とお出かけしたんだ?」
「うん!」
チエちゃんと名乗るその子は歩きながらいろんな話を聞かせてくれた。木村さんに遊園地へ連れて行ってもらった話、部屋で大好きなアニメを見たり人形遊びをした話。きっと木村さんはチエちゃんのコトをとても可愛がっているんだろう、一生懸命織りなす言葉の端々から木村さんを慕っているのがひしひしと伝わってくる。それもそうか、後輩の幕之内くんだけじゃなくその後輩の知り合いである私にまで面倒見がいいんだもの。チエちゃんをあやす姿は容易に想像がついて、温かい風がひと吹き、胸になだれ込んだ。
ちゃん、こっち!」
「ココ通るの?!」
目的地までの道のりは長くなくとも易くはない。張り切って選んだ淡い色のスカートを汚さないよう猫のお散歩コースみたいな細い裏路地を最後に抜けると、ようやく目の前に「木村園芸」の文字と大きな花束を抱えたお客さんを見送る木村さんの姿が見えた。
「こっちこっち!」
「まって~!」
「お、チエちゃん……とちゃん!?」
駆け寄るチエちゃんの後を追って近づくと、気付いた木村さんが私を見るなりぱん!と顔の前で手を合わせ、頭を下げた。
「連絡もせず待たせてほんとゴメン!ちょうど出るタイミングでお得意さんに捕まっちまって」
「そうかなあとは思ってました。サービス業あるあるですよね」
「すぐ用意するからちょっとだけ待ってて」
そう言い残し木村さんがお店の中に引っ込んだタイミングで、入れ替わりに「すみません」と申し訳なさそうな声が耳に入った。おそらく私に投げかけているであろう雰囲気を感じて振り返ると、女の人が眉を下げてこちらを向いている。長靴に黒い防水エプロンを身に着けた格好は買い物客、というワケではなさそうだ。するりとチエちゃんの手が私から離れ、女性の元へ駆けてゆく。
「店からウチの子が見えたもので……。何かご迷惑おかけしてませんでしたか?」
チエちゃんのお母さんだ。並ぶとそっくりな顔、チエちゃんの頭を撫でる慣れた手つき、なによりぴったり寄り添うチエちゃんの様子で二人が親子なのは一目瞭然だった。ふと道を挟んだ奥にある生魚店の看板が目に留まる。おそらくあそこからチエちゃんが見えて、声をかけてくださったんだろう。
「あ、いえ」
私が口を開くと不安そうにこちらを窺うチエちゃん。
「全然そんなコトないです!私が困ってたのを見て道案内してくれて……とっても助かりました」
「あら、そうでしたか」
ありがとう、とチエちゃんに向かって笑いかけると、二人の強張った表情がようやくほっとしたものへと変わった。当初の予定とは多少違ったけど、ここまで連れてきてくれたチエちゃんの親切心を無下にはしたくなかったのだ。結果的に木村さんと合流できたワケだし、これでいいよね。
「でもびっくりしたなぁ。チエちゃん、達也くんのご近所さんだったのね」
「たつや、くん……?」
「あっ」
チエちゃんに合わせて呼んでいた「達也くん」が無意識に口から漏れてしまったのに気付いたが、時すでに遅し。震える声が背後から聞こえ、恐る恐るもう一度木村さんのお店の方へ振り返ると、エプロンを脱いだ木村さんがあんぐりと口を開いて固まっている。
ちゃん、今のさ」
「すすすすみません木村さん。違うんです、話し方が移っちゃって、つい」
のしのしと近づく木村さんに両肩を掴まれる。凍り付いた心臓が今度はバクバクと心音を早め、嫌な汗が全身から噴き出してきた。私を真っすぐ見据える木村さんはまるでボクシングの試合相手を見るような目つきで、リングの上では頼もしいその表情も対象が自分である今は少し怖く感じてしまう。
「本当にすみません。怒ってるなら謝……」
「もう一回言ってくんねえか」
「え」
「いや、一回と言わずこれからずっとソレがいい」
「ソレって言うのは、その、た、たつ……」
言いよどむと木村さんは怖い顔のまま首がもげそうなほど大きく頷いた。
「ムリですよ!」
「なんでだよぉ」
突拍子もない申し出に崩れそうになりながらも丁重にお断りを入れる。『なんで』って?理由なんて魚のウロコほどあるけれど、一番は私が恥ずかしいから。
「どうして「木村さん」じゃダメなんですか」
「それは……」
肩に触れた手に力がこもって、下唇を噛んだ木村さんが視線を外す。形を変えた癖のない髪の隙間から見えた耳は真っ赤だった。
「ダメってんじゃねえけどなんか……ノジョっぽかった……っつーか、いや!気の置けないカンジでいいなって思ってよ!」
「なんですそれ!」
魚屋のお母さんの押し殺した笑い声と不思議そうなチエちゃんの視線を最後にこのやり取りは終わったけれど、お蕎麦屋さんにいく道すがら木村さんが独りごちた

ほ 本気なんだけどなあ


という声を、その日幾度も思い出しては私は胸を焦がすのだった。

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2021/11/19