「私、朝ニガテなんですってば」
「そこを何とか頼むよさん、このとーり!」
「……分かりましたよぉ」
って、どうして返事してしまったんだあの日の私!
普段の出勤時間でさえ毎朝ギリギリに家を飛び出しているのに、主任の手に余った案件を手伝うため更に1時間早く出勤しなくちゃいけなくなったのは朝が弱い私にとってなかなかヘビーな事案である。期間は2週間。つまりこんな辛い朝があと2週間も続くというコトだ。初日から早くも絶望を感じながら私はねむけまなこでバス停に佇んでいた。
あー眠い。立っていてもゆらゆら落ちてくる視界の代わりに周りの音が勝手に耳に入ってくる。車道を横切る排気音。遠くで響く誰かのジョギングの足音。信じがたいがこの音の数だけ起きて活動している人がいるらしい。皆さん一体何時に起きてるんだろう?ぜひとも早起きの秘訣を教えてほし……
ちゃん?」
どうでもいい考えが脳内を巡っているとリズムよく近づいていた足音が突然ぴたりと止まり、名前を呼ばれた。声の主が誰か分かるや否や眠気なんてあっという間に吹き飛んでしまう。
「木村さん!」
仕方ない、だって好きな人の声なんだから。
「おはよ」
虚空を彷徨っていた視線を声の方へ向けると水色のジャージに身を包んだ木村さんがほっと息を吐いて私の前で立ち止まった。
「おはようございます。ロードワークですか?」
「そ。朝の日課」
早朝の澄んだ空気によく似合う爽やかな笑顔で頷いた木村さんは、眠い眠いとぐずぐずの私とは大違いだ。
「すごいですね、毎朝こんなに早く……お疲れ様です」
「一歩に比べりゃオレなんて全然だよ。ちゃんこそ仕事?時間早くねえ?」
「普段はもっとゆっくりなんですけど、仕事の関係でしばらくこの時間なんです」
「ふーん」
この木村さんの相槌と共に一際大きなエンジン音が速度を落として近づいてくる。「あのバス?」尋ねるような目くばせに首を縦に振って、車道から少し離れた木村さんへ私は別れの会釈をした。ああ、こんな時くらい遅れて来たっていいのに。木村さんと話せたのもつかの間、無情にも時刻通りに到着したバスはあんぐりと口を開けて私が乗り込むのを待っている。
「“しばらく”っつーコトは、明日もここ通りゃあちゃんと会えるのか」
後ろ髪を引かれながらステップに足をかけたタイミングで降ってきた一言に心臓がドキリと跳ねた。
「は、はい。明日も出勤ですので」
「そっか。いいコト聞いたぜ」
思わず振り返れば、さっきと同じ笑顔の横で木村さんの右手が空を舞った。
「いってらっしゃい」
「あっ、いってきます!」
なんだかまだ夢を見ているみたい。歩道から手を振る木村さんに見とれていた私はバスが発車した揺れでようやく我に返り、あわてて窓越しから大きく手を振り返した。

明日もタイミングが合えばいいなぁ。その日はまた顔を見られれば御の字くらいに思っていたけれど、木村さんは次の日も、そのまた次の日も、毎朝バス停の前でロードワークの足を止めてくれた。
「おはようございます、木村さん」
「おはようさん」
挨拶をして、バスが来るまでの短い時間は昨日見たテレビの話とか今日のお弁当の中身とかたわいもない話に使う。それから車が少ない時間帯の車道を通って毎回時刻通り到着するバスが乗車口を開けると、木村さんは手を振り、動き出すまで見送りをしてくれた。来てほしいとお願いをしたワケでも、約束をしたワケでもない。おそらく「ほっといたら遅刻しそうだな」くらいの気持ちでロードワークついでに様子を見に来てくれたんだと思うけれど、毎朝手渡される木村さんの「いってらっしゃい」はまるであつあつのパンケーキの上でバターが溶けるのを眺めている時のような、うっとりとした幸せで胸を温かく満たしてくれた。今日は何を話そう、明日はどのくらい話せるかな。憂うつなだけだった早起きは毎日木村さんに会える「嬉しい予定」に形を変え、気が付けば2週間は飛ぶように過ぎていった。
そして今日は案件の締め日……言い換えれば1時間早く出勤する最終日。お気に入りのリップとコロンで身支度を整えて私は家を出た。

「おはようございます」
「……え?!」
遠くから聞こえる足音を頼りにタイミングを見計らって声をかけると、急ブレーキをかけた木村さんは私の顔を見るなり目を見開いた。
「え?なんで?!」
「今日でこの時間の出勤が最後なので、お礼と……今日は私が「いってらっしゃい」を言いたくて、来ました」
木村さんがこんなに驚いているのはここがバス停ではなく木村さんのお家がある商店街のアーケードの下で、さらにこの2週間顔を合わせていた時間より30分早い時間だからだろう。
木村さんにしてもらった分、私も何か返したい。こんなコトは私の独りよがりだって分かってる。でも今までと変わらないまま最終日を終わらせるのはどうしてもイヤだったのだ。
「木村さん、毎回バス停まで来て下さって本当にありがとうございました」
面食らった顔のままの木村さんへ私は頭を下げた。
「お恥ずかしい話ですけど私、早起きが苦手で、時間が変わってから仕事に行くのがホントに不安だったんです。でも毎朝木村さんが声をかけてくださったおかげでなんとか今日まで頑張れました。いつもいってらっしゃい、って見送って下さったの、すごくすごく嬉しかったです」
「あー、うん」
頭上から降ってきたのはなぜか歯切れの悪い木村さんの相槌。短い返しに込められた意図が分からず顔を上げると、あの涼やかな笑顔ではなく、どこか困ったように眉を下げて木村さんは笑っていた。
「いや、ちゃんの役に立ったんならいいんだけど、オレがバス停まで行ってたのってそんなに感謝される動機じゃねえよ」
わざわざ時間とコースを合わせて朝早くから知り合いを見送るのに利点なんて無い。動機も何も、私を見かねて善意で来てくれたんじゃないのか。ますます分からなくなっていたら、そっと視線を外した木村さんは空を見上げて続きを話し始めた。
「ロードワークってさ。別に楽しいモンでもねえし、毎日やってりゃたまにはヤダなーって思うコトもあんだよな」
誰もいない商店街。木村さんの穏やかな声だけが日中よりもひんやりとした空気の中をゆっくりと泳いでゆく。
「そんな時はアップテンポの音楽を聴いてみたり、いつもと違うコース走ってみたりしてなんとかてめえのケツを叩くんだが……そんなの比じゃねえくらいやる気になるコトが偶然起きた。2週間前だ。出勤途中のとびきりカワイイ女のコとばったり出くわして、しかもそのコは眠そうな顔でオレに「おはよう」って笑ってくれんのよ。……男ってのはバカだからよ、その「おはよう」がガンバれる理由になっちまうんだな、コレが」
一つ一つ木村さんの手から離れていく言葉が流れ着くたび心臓の音が早くなる。胸がぎゅっと苦しくなる。
「……木村さん」
「だから、オレがちゃんの「おはよう」を聞きたかっただけ」
再び向けられる視線と共に静けさが二人の間に横たわる。しっとりと甘い沈黙は頬の熱さも、早すぎる心臓の音も冷ますどころかなおも加速させる要因でしかなく、酸素を求めて大きく吸った息はやけに大きく震えてあたりに響いた。
「同じですね、私たち」
「だな」
すると木村さんは真一文字に結んだ唇をふっと緩め、幕之内くんや青木さんたちと一緒にいるときみたいに肩の力を抜いてパーカーのポケットへ手を突っ込んだ。むせ返るような甘い空気が朝の風と混ざって少し軽くなる。さっきより息がしやすくて、穏やかで、それからもう少しうまく笑えそうな塩梅。淡い光の差し込む今の時間はこのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「まーでも、明日からはそうも言ってられねえな。よしっ!」
両頬を叩いた木村さんは大きく深呼吸して私を見た。
「じゃ、ちゃん……いってきます」
「いってらっしゃい」
眩しそうに目を細めた木村さんが走り出す。その背中が朝焼けに溶けるまで見送ったあと、バッグを肩にかけ直して私も会社へ向かうべく歩き始めた。
morning,boxer
2022/02/12