片や現役のプロボクサー、片やヒールを履いた仕事帰りの女性。茜色から宵闇方面へ流れゆく体を追いかけて、木村の手が彼女の手首をつかむまでさほど時間はかからなかった。
「待てって!」
解こうとうねる細い腕を強引に引いて自身の方へ向かせると、今にも泣きだしそうな
は話す気など無いと言わんばかりに顔を背け、俯いた。
「黒髪のキレイな人だったね」
その震える声が木村の焦燥感をさらに掻き立てる。
「
、誤解だって!アイツは」
「誤解もなにも、さっきの事実が全てじゃない」
「だから違うんだよ」
「……寄り添って、頭撫でて、遠目から見ても楽しそうだった」
「聞けってば!!」
「聞きたくない!!」
擦り切れた声が響いて二人の応酬がひと時止まる。言葉端から垣間見える
の抱く懸念は全くもって杞憂だ。ただ一言、一緒にいた者の正体を明かして誤解を解きたい木村だったが、なかなかどうして和解まですんなりたどり着かない。本来温厚な
は今のように声を荒げて怒るタイプではなく、木村はその穏やかな性格が好きだったのだが、それゆえこういう時どうなだめればいいのか正解を知らなかったのだ。早まる心臓の鼓動に飲み込まれないよう「まずはどう
の怒りを鎮めるか」を木村は必死に模索する。それは
が「『浮気をした自分』に怒っている」と思っているから。
しかし、
が続けた言葉は木村の思惑とは違っていた。
「直接達也の口から聞くのは辛いから。ごめん」
宙に浮いた会話が流れ着いた先で
はぎこちない笑顔を見せ、木村と視線を合わせた。
「心配しなくても私二人のジャマしたりしないよ。今までありがとう。幸せにね」
「は?何言って……」
「ヘンだなって思ってたの。だって達也は日本で指折りのプロボクサーで、雑誌や新聞に名前が載ったりする人でさ、そんなすごい人がどうして何でもない私なんかをって」
徐々に湿り気を帯びる
の赤い瞳の中で木村の切なく歪んだ顔がゆらゆらと波を打つ。薄氷の防波堤は今にも破れる寸前だった。
「最初から分かってた。私じゃ釣り合うわけないのにって。分かってたけど……でも好きだって言ってもらえて嬉しかったの」
私も好きだったから。その瞬間、後に続くはずの言葉も、しゃくりあげた声も、こぼれた涙も。すべては黄昏の空に触れることなく木村の胸へと吸い込まれてゆく。
「分かってねえよ!」
「離して!」
「離すかよ!ずっと粘って、ようやく付き合えたってのにこんなくだらねぇことで手放してたまるか!!」
汗ばむ体も厭わず抱き締める両手と、しがみつく腕。じわじわと虫が鳴く人気のない細道の隅に落ちる夕焼けが二人をほの暗く照らす。
「
のいない生活なんざもう戻れねえんだよ……オレにとって
がどれだけ大事で、どれだけ必要なのかって。お前には伝わってねぇか?」
弾かれたように顔を上げた
の濡れた目に映ったのは、切なそうに見下ろす黒い瞳。唇を噛んで大きくかぶりを振ると木村の表情がほんの少し緩んだ。
「伝わってるけど……じゃあ、さっきの人って」
先ほどの
に輪をかけて大きく頷く木村は、おそるおそる口を開いた
の問いかけを聞いて彼女の両肩に手をやり、まだ物憂げな目の前の表情を真っ直ぐに見据えた。
「いいか、さっきのヤツは板垣なんだ」
「……はい?」
「板垣がな、カツラかぶってワンピース着て脅かしにきたんだよ。んでカツラを被り直してたとこにたまたま
が……」
「来たってこと?」
「ああ、そうだ」
木村が答えると同時に一筋の光がまたもや
の頬を伝った。ぎょっとした木村は慌てて両手で
の頬をぬぐうが、ひと粒、またひと粒、溢れる涙はとめどない。
「なんで、そんなウソつくの?」
「ウソじゃねーって」
「そんな突拍子もないこと、達也が逆の立場なら信じれる?」
「……そ、それは」
力無い
の指が木村の手を押しのけると震える背中で木村からの視線を遮った。
「そーなんだけど、でもホントなんだってば!!!!!」
「ああっ、見つけた!木村さーん!
さーん!!」
万策尽きた木村の元へ二人を追いかけてきたワンピースにカツラ姿の板垣が弁解に加わり、ようやく
の目から涙が枯れたのは頭上に星が見え始めた頃だった。ペコペコ頭を下げる
に胸の前で両手を振った板垣が肝試しの待ち合わせ場所へ駆けていった後、ジムに戻る木村の後ろを
はとぼとぼと足取り重く着いていった。
「疑ってごめんなさい」
「気にしてねぇよ。自分で言っといてなんだけど、さすがにあれで信じろって方がムリだろ」
「でもね……」
「ま、勘違いにせよ惚れた女に泣くほどヤキモチやいてもらえるのは存外嬉しいもんさ、男って」
「もぉやだ、恥ずかしい」
小指にはめられた指輪をいじくりながら困ったように笑う
。つられて口角を上げる木村の笑みには、闇の帳に紛れてうっすらとした悲しみがささくれだっていた。浮気を疑われたからではない。
が自分に釣り合わないと思っていたこと、もっと言うならその事実に今まで自分が気付きえなかったことに対しての悲しみである。彼女には隣で笑っていてほしいのだ。今みたいな取り繕う笑顔ではなく、太陽の下が似合うような心の底からの笑顔で。
ジムへの短い道のりを一歩ずつ潰しながら木村は手始めに指輪の光るその手を握りしめるのだった。
今日知った寂しい考えを溶かせる日がいつか、きっと来ると信じて。
リングにこんがらがって
2021/08/13