両手に抱えきれないチョコの山?はたまた一粒何千円もする高価なチョコ?違う、欲しいのはただ一人心を傾けた相手から手渡されるプレゼント。そして今、目の前には想い人が自分に向かってチョコレートを差し出している。今日は2月14日。まさに待ち焦がれた最高のシチュエーション……のはずなのだが。
「どうぞ、木村さん。青木さんも。あっ、青木組さんも甘いもの嫌いでなければもらってください!」
先ほどひょっこりと鴨川ジムに顔を見せた
から木村が受け取ったのは、片手に収まるサイズのラッピング袋。それと同じ格好の包みは
の手の内にいくつもあり、みるみるうちにジムにいる他の面々の元へ渡っていく。なお、近くには
と一緒にやってきたトミ子、久美も同じものを持っていて、それぞれジム生だけでなくトレーナーの篠田や八木にまで渡していた。言葉にせずとも分かる「いつもお世話になってる皆さんへ私達からの気持ちです」の意が込められた社交辞令チョコレート。
「おじゃましましたー!」
三人はそのチョコを配り終えるとあっという間に帰って行った。
母と分けるため笑顔でバッグにしまう一歩や久美から手渡されて浮かれる板垣、すっかり食べつくし「少ねぇ」とふんぞり返る鷹村。皆それぞれまんざらでもない様子な中で、一人神妙な顔をして手の中のラッピング袋をもてあそんでいる木村へ、青木がカニ歩きで近づきわき腹を小突いた。
「どうしたよ。愛しの
ちゃんからチョコもらえたっつーのにしょぼくれたツラしやがって」
「してねーよ」
と、青木に答えつつも実際木村は
からの贈り物を手放しで喜んでいるわけではなかった。もらったチョコが嬉しいか嬉しくないか、と聞かれればもちろん嬉しい。しかし元々一歩を介して知り合った木村と
は昨今一歩抜きに二人で食事や遊びに出かけることも少なくない。
に対する特別な感情も相まって普段から熱心に連絡を取っているだけに、ほかの面子よりも自分は親しい関係にあると木村は自負していたのだが現実は周りの人間と横一線、同じチョコの詰め合わせが手に残るのみ。付き合ってもいない異性の友達としては妥当だと分かっていても、どこか寂しさを感じずにはいられないのが正直なところだった。
「木村?……聞いてんのかオイ!」
半目であさっての方向を仰ぎ見る木村の気が抜けた背中に向かって、青木の張り手が炸裂する。
「ってぇ!!!」
「ンなボケボケのヤローとスパーやったってなんの練習にもなりゃしねーよ。走って気合入れ直しやがれ!」
目を吊り上げて怒鳴る青木を木村は睨み返すが、言い返す言葉は生憎木村の手の内には無い。木村は大きく舌打ちをしてチョコの袋をバッグにしまい込み半ばヤケ気味にジムを飛び出した。扉を乱暴に閉め、いつものロードワークのコースへ足を向けると、合わせて背後から女物の靴の音がコツリとついてくる。男の城である鴨川ジムの周りではあまり聞くことのない低めのヒールの音だ。
「木村さん」
耳当たりの優しい声と共に近づいてきた足音の主は、先ほどジムにやってきた
だった。
「あれっ、
ちゃん。忘れモン?」
「……ではないんですけど。えっと」
チョコの件もありいささかぎくしゃくした気持ちで口を開いた木村だったが、
はというと木村に輪をかけて落ち着かない様子でくるくる視線を彷徨わせている。不思議に思った木村が顔を覗き込むと、やがて
は後ろ手に持っていた手提げ袋をおずおずと前へ突き出した。
「さっきは皆さんがいらっしゃったので渡しづらかったんですけど、木村さんにコレ、渡したくて……待ってました」
「い゛っ」
正に本日の最重要事項。思わぬ申し出に叫びそうになるのを木村は紙一重で押し殺し、ジムの中の気配を窺った。こんなところをほかのメンバー、特に鷹村に見つかればこの後どれだけひっかき回されオモチャにされるか分かったものじゃない。壁に耳あり障子に目あり。自分だけじゃない、後輩の一歩を通してもこれまでに嫌というほど見せつけられてきたことだ。
「ゴメン、ちょっとこっちで」
くるりと
を後ろに向かせ、背中を押してジムからは死角になる一つ角の細道へ誘導する。
「よし。ここなら大丈夫か」
きょろきょろ辺りの安全を確認し、ようやく向き直った木村へ
は改めて先ほどの手提げ袋を差し出した。
「……チョコ?」
が恥ずかしそうにマフラーに顔を埋め、小さく頷いたのを見て、2月14日に男が女にする日本一野暮な質問だったと木村は後悔した。
「お口に合うか分からないんですけど、よかったら召し上がってください」
「
ちゃんのチョイスなら間違いねぇよ。さっきももらったのに悪いな」
「あれは久美ちゃんとトミ子さんと三人からですから。こっちは私個人からってことで」
「ん」
手渡される心地よい重みは木村にとっての大金星。湧き起こる甘い感情の洪水が心の中にこびりついていた負の気持ちを綺麗さっぱりどこかへさらってゆく。とろける薔薇色の蜜のような幸せを、視覚から、感触から、木村は一人静かに噛みしめた。
「あのー」
しかし手提げ袋を見つめたまま微動だにしない木村を不審がった
は慌てて言葉を積み重ねる。
「中身はあんまり期待しないでくださいね?なんだかすごくイイものを想像してる気がするんですけどホントに大したモノじゃないので……」
「いやいや、
ちゃんからもらえたってのが嬉しいんだよ、オレは!」
「そ、そうですか」
大きくかぶりを振った木村の返事を聞いて
は耳まで赤くすると、更に顔を隠すようにマフラーの中へ顔の下半分ほどを埋めて視線を下げた。
「木村さん、私……まっ、また連絡しますね。引き留めてすみません」
そのまま木村と視線を合わせることなく、
は話もそこそこにぺこりとお辞儀をして足早に踵を返した。
「もう行っちまうの?」
「練習の邪魔になりますし、ロードワークから全然戻ってこない!って私のせいで木村さん怒られちゃいますよ」
来た道を戻る
の、有無を言わせぬ背中が角にさしかかる直前
「ありがとな。コレ大事に食うよ」
投げかけた木村の言葉に反応してようやく赤い顔をあげた
はくしゃりと笑い、
「気持ちは嬉しいですけど、なるはやで食べてください。売り物じゃないので」
と言い残し帰っていった。
「そっか、売り物じゃ……………………え?」
大きく手を振った木村の脳が
の言葉をワンテンポ遅れて認識した瞬間、一気に体中の血が顔へ集まり思わず片手で口元を覆う。
「てこたぁまさか手作……」
木村はおぼつかない手で袋から金糸のリボンが付いたネイビーの箱を取り出す。恐る恐る中を開けばデフォルメされた魚の形のチョコクッキーと小さいハート型のチョコが入っていた。決して不格好ではないがクッキーもチョコも少しずつシルエットが不揃いなところが既製品でないことを匂わせている。丁寧に袋へしまい直した木村は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。チョコに込められた
の意図を木村は考える。「手作りなんて本命だって自惚れていいんじゃないか」と天使がジャブを繰り出せば対面で「ならあんなにあっさり帰るワケがない」と悪魔の右ストレートが頬を掠める。
「ダメだ、全然分かんねぇ……!!」
ベタ足で打ち合う状況は天使がごっそりポイントを取りながらも試合続行中。一向にジムへ帰ってこないのを心配した一歩が木村を見つけるまで、彼がその場を動けなかったのは言うまでもない。
一方、
はというと。
「えーっ?!木村さんに告白しなかったのォ?」
「せっかくお膳立てしてやったのによー」
「すみません青木さん、トミ子さん」
青木とトミ子の住むアパートに転がり込み、二人の前でうなだれていた。
「やっと
ちゃんが告白する気になって、私楽しみにしてたのにぃ」
「だって、チョコ受け取ってもらえただけですでに胸いっぱいなのに、木村さん、私からもらえたのが嬉しいって……あの状態で告白なんてしたら私心臓爆発しちゃいますってば!」
両手で顔を覆った
を見た青木はしらけ顔で自身の体の後ろに両手をついて大きくのけぞった。
「分かってますよ、木村さん優しいからああいうふうに言ってくれただけだって。あげたのが私じゃなくってもそのくらい言うって」
「なんだよ結局いつもの
ちゃんと木村じゃねーか」
どうにもこうにも脇をすり抜ける二人の想い。通じ合うのは残念ながらもう少し先の話。
いつものふたり
2021/02/14