「じゃあね、達也くん」
「ありがとうございました!」
店を出ていった常連客の姿が見えなくなると木村は大きく息を吐き出しどっかりと椅子に腰掛けた。毎月花を買いに来てくれる町内会長の奥さんは悪い人ではないが、会うたび繰り出される「うちの娘を嫁にどうかしら」と、何とも返答しがたい質問は少しばかり苦手だった。しかも今は運悪く父親は配達、母親は買い物。一人店番を任されていた木村に誰かからの助けは期待できず、曖昧な笑顔と曖昧な返事でなんとか切り抜けたところだった。
嫁どころか彼女だっていない。が、意中の相手がいないわけではない。木村は人のまばらな通りをぼんやり眺めながら思いを巡らせた。
ジムの後輩、一歩にくっついてよくボクシングの試合を観に来る女性は一歩が通っていた高校の先輩だったという。初めは顔なじみの後輩を応援するため試合に足を運んでいたようだが次第に彼が出場する試合以外でも彼女と顔を合わせるようになった。聞けばそのままボクシング観戦が趣味になったと。穏やかな雰囲気の彼女が殺風景な試合会場をバックにはしゃぐ姿が、木村の心をとらえるのはそう時間がかからなかった。
「あの、すみません」
客だ。思考が引っ張られたまま、ぼやっと木村は立ち上がった。彼女のような人が恋人だったら。いや、彼女が恋人になってくれたらどんなに幸せだろう。名前は、……
ちゃん」
「はい」
「……え」
「こんにちは、木村さん」
「ええ?!ちゃん?!」
なんと店に現れたのはまさに今思い浮かべていた だった。
「すみません、突然おジャマしちゃって」
「いや全然!あれ、でも今日ジムの方に来るって言ってたのに」
先日、例に漏れず一歩の試合を観に来たに鉢合わせた木村が話の糸口を掴もうと記憶の引き出しをとっ散らかした結果、ようやく指先に触れたのは好きな音楽の話題。木村が貸したCDを今日はが鴨川ジムまで返しにいく予定だった。
「実は今日仕事が休みだったのでさっき行ってきちゃったんです。青木さんがいらっしゃったので渡してもらおうと思ったんですけど『時間があるなら家まで行ってやってくれ』って住所教えてもらいまして」
「それでここまで……青木のヤロオ気が利かねぇな」
などと口では言いつつ、どうせと会うならジムよりも邪魔者の少ない店の方が木村にとって都合がいい。しかも今は「運良く」父親は配達、母親は買い物。予期せぬ留守番と腐れ縁の機転に木村は拍手を送りたい気分だったが、そんなことは表に出さず、すまなそうな顔でへ言葉を続けた。
「ごめんな、遠かったろ。オレてっきり仕事帰りに来るもんだと思っててよ」
「いえいえ!私こそお伝えせずすみません。それに今日はいい天気ですからお散歩できてちょうどよかったです。あ、CDありがとうございました」
そう言っては袋に入ったCDを木村へ手渡した。
「それとこれも」
木村が受け取ると、は自身の腕に提げた別の袋も続けて木村の手に引っ掛ける。
「CDのお礼です」
「なんか悪いね、色々気ぃ遣わせちまって」
「ふふっ。コーラ一本分の気くらいは遣わせてください。CD、どれもステキな曲ばっかりでしたね。洋楽ってあまり聴いたこと無かったんですけど特に最後らへんに入ってた曲が好きで……なんだったかな、スムーズ……」
「お、『smoothcriminal』だろ?アレいいよなー。オレも練習でよく使ってたよ」
「練習?ボクシングのですか?」
「そうそう。オレみたいなアウトボクサーはリズム感養うのに音楽かけてやったりするんだよ。まあ一歩とか、ファイターはあんまりしねえかもな」
「いろんな練習方法があるんですねぇ」
「一歩なんか昔冴木……足の速ぇアウトボクサーと試合するってんで練習くっついてきたことあんだけど、まー手も足もちぐはぐで盆踊りみたいになっててさ。オレまで調子狂っちまったよ」
「確かに幕之内くん……ふふ、そういうの、ちょっとニガテそうかも……!」
話の中でふと思い出した後輩のエピソードを木村が零せば、なんとなくその様子が目に浮かんだのだろう、はいつもより少し無邪気な笑顔でコロコロと笑い声を響かせた。そんなを見て木村も眩しそうに目を細める。
あったかいな。
それが胸の中に自然と浮かび上がった、木村の素直な感想だった。耳に心地よい笑い声だったり、会話に流れる温度だったり、が体を揺らすたび日差しの粉が舞うように髪から透ける光の色だったり。そういうものをひっくるめて今、辺りに満ちる温感はうらうらとした春の陽気に似て暖かく心地よい。とろんと愛おしそうな視線でを見つめる木村だったが、彼の心中などつゆ知らず、はたと我に返ったは慌てて肩のバッグを持ち直し頭を下げた。
「やだ、お仕事中なのに長々すみません!私帰りますね」
「あっちゃん!」
くるりと背を向けて店の外へ歩を進める。もう少し一緒に居たい。しかし瞬時にそれを目の前の彼女に合った形へ仕立てられず、木村の言葉は止まってしまう。
「……木村さん?」
「あー。帰り、気をつけて」
「ええ、ありがとうございます」
さっきまでの会話が嘘のように肝心な言葉が出てこない。というのは木村にとってあまり経験のない出来事だった。今までなら相手が応じたかどうかはさておき、ナンパ然り合コン然り気の利いた言葉の一つや二つは苦労なく口からついて出てきたからだ。ところが今はどうだ。片思いの相手を引き止めるセリフひとつ思いつかないなんて。くしゃりと頭を掻きながら木村は焦りで溶けてゆく思考に手を突っ込んで言葉を探す。なんでもいい、に何かもう一言かけたい。
「わぁ、キレイ」
その時、細い背中がこぼれる溜息とともにぴたりと足を止めた。木村がの視線を追うと、その先は店先に並んだ様々な花の中からぽってりとした花弁が色鮮やかな一角。
「チューリップ、まだたくさん並んでますね!」
「好きなの?」
木村の問いにこくんとは首を縦に振った。
「そうなんです。春もこのくらいの時期だとだんだんお店で見なくなるんですけど……嬉しいなぁ」
そうしては少し考える素振りを見せてから再び木村へと向き直る。
「木村さん」
「どした?」
「一本買って帰ってもいいですか?」
突如降って湧いた延長戦。エクストララウンド。先ほどのの比じゃない勢いで頷いた木村の脳内には春色のゴングが鳴り響いた……気さえした。
「お、おう。もちろん。好きなの選んで持っといで」
この僥倖を逃してなるものかと、が花を持ってくる前に木村はレジの前で大きくかぶりを振って気持ちを整理する。
「お願いします」
「まいどあり」
ほどなくして黄色のチューリップを持ってきたから花を受け取り、木村の手はいつものように花を包むための古新聞へ伸びる。が、少し迷って方向転換。今日は机の下の棚にある白い不織布を一枚取り出した。
ちゃんはこの後用事?」
透明なビニールと共に花の周りをぐるりと覆ってゆく。
「いえ。でもここの商店街初めて来たのでなにかおいしいものでも買って帰ろうかなって思ってます」
次はテープの横にいくつかかかっているリボンの中からフリルのついたものを手に取る。
「なら角の和菓子屋さんのたい焼きがオレのオススメ。あんこたっぷりつまってて旨いんだ」
リボンは花弁に合わせた彩やかなイエロー。丁寧に花へ巻き付け、結んでゆく。
「わー!あんこ大好きなんです私。この後行ってみます!」
「すぐそこだから案内するよ。はいどうぞ」
「かわいい……ありがとうございます!」
それからバッグから財布を出すの手を、木村はやんわり制した。
「家まで来させちまったしお代はいらねーよ」
「そんな!ダメですって」
ちゃんだってコレ、お互い様だろ」
レジ横に置かれた先ほどのCDが入っていない方の袋をトントンと指で合図する。むっと眉に力を込めるに指先の向きを和菓子屋の方へ変えた木村は店のエプロンを外してさっさと外へ歩き出してしまった。
「でも」
「なら今度メシでもオゴってくれよ!……なんてな」


「達也、おい達也!」

「ん?」
「具合でも悪いのか?」
「いや、なんでもねーよ」
木村園芸開店まで30分を切った店内でジョウロを持ったまま微動だにしない息子へ、彼の父が怪訝そうに声をかけた。
「達也、先にこっち並べといておくれよ」
「んー」
その声でふと我に返り水やりの続きを始めるが、次は別方向から母親の指示が飛んでくる。手を止め、言われたようにショーケースへ草花の陳列を始めた木村の目に飛び込んだのは、水滴を光らせて咲く黄色い花。よく見ると隣には様々な色や少し違う形の花もある。
「色とか種類とか結構いろいろあるんだな、チューリップって」
「珍しいねお前が花のこと聞くなんて。好きなのかい?」
「まぁ。好き、だな」
『食べたいもの考えておいてくださいね、絶対ですよ?!』
ほとんど結果を期待していなかった提案に対して生真面目に詰め寄ってくる大きな瞳を思い出し、木村はついつい緩みそうになる顔を唇を噛み締めなんとか抑え込むのだった。
「あ、オレ今日メシいらねーから」
時には春でも嗜んで
2021/04/15