例えば後楽園ホールの中。みんなより遅れて入った青木さんの中華屋さん。私が戸惑っている時、真っ先に見つけて隣に呼んでくれるのはいつも木村さんだ。
それは木村さんの元来面倒見のいい性分がそうさせているだけなのは重々承知だ。でもいつからだろう。そこを誰にも譲りたくなくなったのは。失くすのが怖くなったのは。

ちゃん何飲む?」
「あ、すみません。さっきのと同じ……これで」
板垣くんとだし巻き玉子が姿を消したテーブルで再びドリンクメニューを広げた木村さんに先ほどと同じノンアルコールカクテルの名前を指さした。
チェーン店にはよくある、間隔の狭い座席。ふと顔を上げた先にある木村さんの横顔が想像以上に近かったのを今更認識した私は、体中を走る甘い痺れから逃げるようにテーブルへと視線を巻き戻す。空いたグラスとグラスの横に転がっているハゲチューのストラップの静止画を視界に収めたまま俯いていると、ここに来た時から絶えなかった言い争いがいつの間にか笑い声へと変わっているコトに気付いた。さすがは板垣くん。あのカオスな雰囲気をうまいこと和やかムードに変えてしまったらしい。隣のテーブルでは先ほどとは打って変わり青木さんたちも混ざってそれぞれ楽しそうに話をしていた。
「木村さん。私たちも席移動しますか?」
もうピリピリした様子が無いのなら偏った人数でテーブルを分かれる必要もない。そう思って木村さんへ声をかけた。
本心じゃない。本音を言えばずっと木村さんと二人で座っていたいけれど、まるで魔法にかかったようなうまく事が運びすぎている状況に怖気づいて天邪鬼を言ったのだ。
「えっ?!なんでだよ?」
木村さんは慌てて私の顔を覗き込んだ。また少し距離が近くなった木村さんの表情は自惚れかもしれないけど私の目には名残惜しそうに映った。
木村さんこそどうして?
「久美ちゃんたち落ち着いたみたいですし、私がここに居座っちゃったら木村さん移動しにくいですよね」
「な……オレは大丈夫だって!動きたくなったらそんとき言うよ」
「とかいって絶対エンリョしちゃうでしょ」
どうして頷かないの?
どうしてそんな顔をしてくれるの?
そんなにうまく行きっこないって分かっているのに、こうやってさりげない優しさを見るたび期待してしまう。木村さんが持っているガラスの靴は私のものじゃないか。そして木村さんは靴の主を探してくれてるんじゃないか、って。
でもそれは全てたらればの話でしかない。
自信も確証もない私はどうして?の理由が思い過ごしだと分かるのが怖くて、今も食い下がる木村さんを愛想笑いで煙に巻いた。別に今日だけじゃない。臆病風に吹かれていつもこうしてきた。
「あ!あっちのテーブル、まだだし巻き残ってますよ?私取り返してきます、木村さんも食べた……」
「待てってば」
続けざまに話す私に普段より低い声で木村さんが割り込んだ。
「ホント、そういうの考えなくていいから」
怒っているのとは違う。もっと切なさを帯びて絞り出される、重く掠れた一言と共に大きな手が重なって立ち上がろうとした私を制した。
ごくりと動く木村さんの喉元と、息遣いと、手の感触だけで頭がいっぱいになる。脈拍が数を打つ。隣のテーブルから聞こえる声も店内に流れる懐かしいJ-POPもどこか遠のいてしまった。
「……はい」
そう答えて完全に座り直しても肉厚で温かい感触は離れる気配がない。他の誰からも見えない位置、私と木村さんの間で依然触れ合ったままの手。体温が融けていくにつれお酒に酔ったみたいに顔が熱くなってこれ以上言葉が出なかった。
もうすぐ店員さんが二杯目のコーラと「シンデレラ」を持ってくるだろう。あと少しだけ。それまではどうかこのままでいさせてください。
願いを込めて乗せられた手の小指を親指でなぞれば、包み込む手が痛いほど握り返してきた。
サンドリヨンが着くまでは
2022/03/29