なんでも今日はおじさんとおばさんがフラワーアレンジの勉強会で日中出かけているらしく、その間一人で店を切り盛りしている彼をねぎらうため用意したお昼ごはん片手に電車へと飛び乗った。足を運んだ商店街の見慣れた一角、「木村園芸」の看板の下からは朗らかな笑い声が店の外まで響いていて、私は水を差さぬようそっと中を垣間見る。
「
?」
が、その努力はむなしく顔を出した瞬間レジ前で話すエプロン姿と目が合ってしまった。名前を呼ばれ、あろうことかのそのそこちらに近寄ってくる。
「た、達也!お客さん……」
「あー大丈夫。コイツ客じゃねえから」
接客中の相手へのんきに背中を見せる達也をすかさず追い返せば、こちらを振り向いた先ほどの話し相手と共に二人の笑い声が私を取り囲む。私に向かって軽く会釈をしたその人はどことなく達也と背格好の似た男の人で、お客ではない彼が一体何者なのか分からないまま曖昧に私も会釈を返した。
「商店街のご近所さんでよ、今日引っ越しなんだ」
面識のないその人と私の間を埋めるように達也は話し始める。彼は3年ほど前この商店街へ引っ越してきたコト、達也と歳も近く仲が良かったコト、転職のため今日でココを離れるコト。そうこうしているうちに時間が差し迫ってきたようで、その人はおそらく口にするのは初めてではない感謝の言葉を達也に告げた。「これが最後だ」と、そんな重みをほのめかして生まれた「ありがとう」だった。
「なあ、待て待て」
立ち去ろうとする彼の足を今一度止めた達也は店の中をぐるっと見渡し紫色の花を数本見繕った。なめらかな手さばきで束ね、ささやかにラッピングを施したブーケと呼ぶには簡素なそれを静かに彼へと手渡した。
「男に花なんざもらっても嬉しかないだろうが、持ってけよ」
端正な顔がくしゃりと崩れて笑顔をかたどる。揺れた花の奥で細めた目が頷き、今度こそその人は店先の通りから向こう側へと渡っていった。彼の友達だろうか、遠巻きにこちらを見ている四人組の元に加わり、別れの季節には幾分早いはなむけが雑踏に溶けて見えなくなるまで達也と店から見送った。
「タイミング悪くてゴメン。邪魔しちゃった」
「いや全然」
「さっきの人、さっぱりした顔してたね」
「まあ、本人にとっちゃ飽きるほど考え抜いた末に決めたコトだろうよ」
最後に見た横顔は私がおぼろげに考えていた「別れ」のイメージよりもずっと晴れやかだった。きっとその理由は達也が言うように新しい道に足をつけるまで色々な経緯があって、もうそんな湿っぽいのはとっくにやり尽くした後だからなんだろう。
「つーか今日どうした?」
「あ!達也にね、コレ持ってきたの」
何となくしんみりしたムードで話し込んでしまったが、ふと当初の目的を思い出しおかずを詰め込んだトートバッグを目の前に掲げてみる。
「一人で店番ガンバってる孝行息子にお昼の差し入れです」
「マジか?!サンキュー!いや、実は昼メシどうすっか考えてたんだよなぁ」
私の目論見は想像以上に功を奏したようで、達也は目を輝かせて中を覗き込みながらそのままバッグを自分の手元に引き寄せた。
「やべ、猛烈にハラへってきた。お客さんいないうちに食っちまおっと。
も中入れよ」
「ありがと」
『御用の方はベルを鳴らして下さい』とレジ前に案内を立てかけて店の奥へと促す達也の後に続く。しかし店と家を区切る扉を開けたところで達也は中に入らず突然立ち止まってしまった。
「
あのさ」
「なあに?」
「オレはまだ「残る」つもりでいるよ」
動かない背中がぽつりとつぶやく。11月と12月の狭間に漂う冷たい空気に震えたのは、ひどく真剣な声色だった。
「アイツみたいにいつかは変わらなきゃいけないのは分かってる。でも今は……まだ続けてえんだ、ボクシング」
だから。一度口ごもったあと、横目で私の顔色を探っている。
「もうしばらく迷惑かけるけど」
「迷惑なんて」
「心配も」
「それは……ちょっとだけね」
「それに」
「私、達也がボクシングしてるトコ好きよ」
新しい世界に飛び込むのと同じくらい、周りが移ろう中変わらず立ち続けるのだって相当な覚悟が必要だ。あの人は前者を選んで、この人は後者を選んだ。もしかすると「まだ行かないで」と引き留めてほしかったかもしれない。「もう行きなよ」と背中を押してほしいのかもしれない。でもそんな何種類も混ざったパズルの中から自分の意思でピースを拾い上げたのなら、組み上げたかたちがどのようであれそれぞれにとって最善で最高の選択に違いないと信じている。
「頭上がんねえな、
には」
「大事にしてよね」
「……大事にするさ、これからもずっと」
珍しく、痛い程に強く手を握り返した達也が言った。
君に幸あれ
2021/12/01
11月30日をもって舞台で木村さん役をされていた俳優さんが新しい道を歩むこととなりました。
素敵な方に演じていただいて一原作ファン、木村さんファンとしてとても幸せに思います。ありがとうございました。