※木村さんお相手前提のはなし
家業である釣り船屋の仕事を終え、鴨川ジムへ顔を出した一歩を出迎えたのは「キャン!」と甲高い動物の鳴き声だった。
「い、犬?!」
リングのコーナーポストに括り付けられたリードの先には茶色い毛のかたまりが一生懸命一歩に向かってしっぽを振っている。
「うわぁ、かわいいなぁ」
「よう一歩」
「青木さん、おはようございます。かわいいトイプードルですね。誰が連れてきたんですか?」
幕之内家の一員であるワンポとは大きさこそ違うが、元気いっぱいにはね回る姿はどことなく重なって見える。一歩は吸い寄せられるようにコーナーポストへ近づき、足元でせわしなく動く犬の体を慣れた手つきでわしわし撫でてやった。
「ああ、
ちゃんだよ」
「先輩が?」
青木の口から飛び出した予想外の人物に一歩は辺りを見回すが、目の届く範囲には青木と縄跳びを終えて駆け寄ってきた板垣しか見当たらない。一歩の言わんとすることを汲み取った2人は神妙な顔を見合わせた。
「実は
さん、怪我の手当て中なんです」
「えっ」
板垣の言葉を聞いて小さく声を漏らした一歩の顔色からさっと血の気が引いてゆく。
「学くんどういうコト?!怪我って、どうして?なんで??」
「一歩」
板垣に詰め寄る一歩の腕を引き、青木が落ち着かせる。
「たまたまココの近くにいたもんで連れてこられたらしいけどよ、とにかく先に応急処置だっつってオレたちもまだ詳しいことは聞いてねぇんだよ」
ボクシングジムという特性上、ここには包帯や消毒液など怪我に対する治療道具は一通り揃っている。実際一歩が初めて鴨川ジムを訪れた(というか運び込まれた)のも怪我の手当てが理由だった。しかし、一歩を含め懇意にしている人は多いもののジムの門下生でもなく普段頻繁に訪れることもない
がわざわざ寄るほどの容態とは。繋がれていた犬を見るに
は散歩中だったと仮定すると自転車や車との接触事故か?もしくは柔和な雰囲気の
に小さなトイプードルが一緒とくれば誰だってあえかな印象を抱くに違いない、それを狙われて事件に巻き込まれた可能性だって無いとは言いきれない。いずれにしても絆創膏を貼ってはいおしまい、と言った状況では無いはずだ。そう思考が行き着いたとき、腹の底からぞわりと粟立つ感覚が一歩を襲った。
「せ、先輩は今どこに?」
「休憩室で木村さんが手当てしてますよ」
「ボク、様子見てくる!」
「おい待てよ一歩!」
居場所を聞くなり走り出した一歩の後を青木と板垣も慌てて追いかける。スタートはリングのコーナーポスト。ゴールは休憩室。普段のロードワークの成果を遺憾なく発揮し、一番乗りの一歩が休憩室のドアノブに手をかける。が、すんでのところで板垣が追いつきその背中に向かって飛び込んだ。背後からやってきた突然の衝撃にはさすがの一歩も耐えられずバランスが崩れる体……短い追いかけっこはゴール目前、一歩がリング、いや、廊下に沈み決着となった。
「あつつ……」
「さっき言ったろ。今『木村が』手当てしてんだって」
一足遅れて二人に追いついた青木が、板垣の下敷きになった一歩の前でしゃがむと一歩は反論を用意していた口をそっとつぐみ、唇を噛んだ。木村の、
に対する恋心は彼らの間では周知の事実で、それは一歩も例外でなかったからだ。
「このドアの向こうには
ちゃんと木村が二人っきり」
「お邪魔するのは野暮ってもんですよ」
「でも、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
とにかく
の症状が気になる一歩はいてもたってもいられないのだが、比べて二人は能天気に話を続けている。
「一歩にゃ分かんねぇかもしれねーけど、
ちゃんは今までてんで女に縁のなかった木村によーーーーやく現れた女神サマなんだよ。たまのいいカッコできるチャンス、アイツに花持たせてやってくれよ」
「そうそう、お花屋さんだけにね」
「へっ、うめーこと言うじゃねぇか」
「それでは座布団87枚いたがきまーすっ!」
「青木さんも学くんも酷いです!」
一度は言葉を飲み込んだ一歩だったが、青木と板垣の緊張感のないやり取りを前に再び口を開いた。
「どしたよ一歩」
「どうしてこんな大変な時にヘラヘラしてられるんですか!やっぱりボクも手当てお手伝いします!いくら木村さんと先輩が二人でいるからって!!いくら木村さんが先輩のコト好」
「やかましいぞお前ら!!!」
このタイミングは故意か否か。一歩の言葉の続きをかき消すかのごとく、勢いよく開かれたドアと共に木村の不機嫌そうな声が一際大きくジムの中に轟いた。
「全部筒抜けだ」
「すみません木村さん。あの、先輩は……」
「幕之内くん?」
部屋の奥からころりと転がってきたのは耳馴染みのある女の人の声。今、一歩が一番聞きたかった声。弾かれるように一歩は上に乗ったままの板垣をぽいと剥ぎ取り、木村の横をすり抜け、
の元へ一目散に駆け寄った。
「せっ、先輩大丈夫ですか?早く病院へ……いや、先に救急車!骨が折れてたりしたら大変です!あっ、山口先生ならすぐに来てくれるかも……」
「骨!?」
部屋に飛び込んでくるなりまくし立てる後輩の様子に
はすっとんきょうな声を上げるが、一歩の頭と耳にはその違和感がまるで伝わっていない。
「先輩、死んじゃダメです!せんぱ~~い!!」
「ちょっとちょっと、幕之内くん!落ち着いて!」
「……え」
パイプ椅子に座る
の足元に取り縋った一歩はハの字眉のままばっと上を仰げば、潤んだ丸っこい瞳に映ったのは困惑と半笑いがない交ぜになった
の表情だった。顔、肩、腕。ぺたぺたと
の傷を確認するが腫れてもいなければ出血も無い。冷静になってよくよく見てみると、膝のあたりに包帯が巻いてあるだけだった。
「私、転んだだけなんだけど」
一歩が後ろにへたりこんだと同時に
の笑い声が一瞬の静寂を切り裂いた。
「すみませんでした。なんか勝手に大騒ぎしちゃって」
「ううん、心配してくれてありがとうね」
リングに括られたトイプードルは
の住んでいるアパートの大家さんが飼っている犬だということ、
が一人暮らしなのを気にかけて普段からよくしてもらっていること、その大家さんは高齢に加え少し前から足を悪くしたため休日は代わりに散歩をしてること、膝の擦り傷は散歩中救急車が横を通った時に急にリードを引っ張られ転んだ時にできたこと。順々に
は一歩たちへ説明した。
「あんなちっちゃいワンちゃんに力負けするなんて恥ずかしいんだけど……」
照れたように頬を抑える
。沸き起こった一歩達の温かな笑声は和やかな空気と溶け合い彼らを包み込んだ。
「いやいや、犬って小さくても意外と力ありますから」
板垣が助け舟に積んだ言葉を拾いあげ一歩も横で深く頷く。
「それにしても手当てしにジムまで来るくらいだから大怪我なのかと思っちゃいました。大したことなくて良かったです」
「私も練習の邪魔するのは申し訳ないって言ったんだけど」
「『言った』?」
がちらりと一歩から目線を外す。その先で腕組みをしたままの木村がぴくりと片眉を上げた。
「だって痕でも残ったらタイヘンだろうが。女のコなんだからよ」
「……って木村さんが言ってくださったからお言葉に甘えることにしたの」
「あの、木村さんと一緒だったんですか?」
「うん。そうだよ」
にっこりと笑顔を見せる
に反して含みのある笑みを浮かべる青木と板垣、そしてなぜか照れる一歩。三人の様子を見て木村が面白くなさそうに顔をしかめた。
「木村さん犬好きだから予定合えば一緒に遊ばせたいんですって。ね、木村さん。だからお散歩行く日は連絡してるの」
「こいつと幼稚園からの付き合いだが、そこまで犬好きなんざ今まで一度も聞いたことねぇけどなぁオレは」
青木はからかい口調で木村に忍び寄り、横からがっしりと木村の肩を組んだ。
「うるせーぞ青木」
「でもあの子木村さんにすっごく懐いてますよ?ワンポくんも木村さんお気に入りだし、ワンちゃん好きな人じゃなきゃこんなに懐きませんよ」
青木に対してぷいとそっぽを向いた木村だが、
が話すと不機嫌な顔をぱっと崩して、嬉しげに目じりを下げた。しかし青木の反対側からも木村に近づく影が。板垣だ。
「木村さんは犬っていうか『
さんが連れてる』犬が好きだったりして」
「あ?んだと板垣」
舌打ちと共に板垣を小突く木村の眉間には再度くしゃりと皺が寄せられる。
「へー、木村さんトイプー派なんですね。分かります!あのくるくるふわふわの毛が可愛いですよねっ!」
「だよな!」
またもや
の話に合わせて最上級の笑顔を作る木村。露骨な変わり身の早さに、三人は冷ややかな目を彼に向けた。
「前から思ってましたけど。ホント、要領いいですよねこの人」
「別に花持たせる必要なかったんじゃないですか」
「そう言うな。トミ子が早くWデートしたいって楽しみにしてんだ」
三人が顔を突き合わせている間にも木村は立ち上がる
の手を取り、さりげなく荷物も代わりに持って
を家まで送る下ごしらえは万端の様子。
「あっ、木村さん。私荷物自分で持ちますから」
「いーから怪我人は大人しくしてな。タクシー呼ぶ?」
「大袈裟なんですからもう」
「……やっぱり要らねぇかな」
連れ添って部屋を出ようとする二人の仲睦まじい後ろ姿へ、三人はさらに白い目で視線を送っていた。
「じゃ。オレ、
ちゃん送ってからまた来るわ」
「あ!木村くん。ここにいたんだね」
木村と
を筆頭に、皆が休憩室を出ようとした時、ちょうど廊下からひょっこり顔を見せたのは八木だった。
「うっす。どうしたんすか?」
「次の試合相手のビデオが手に入ったんだけど、今からミーティング来てもらえるかな」
の背中に手をやりご機嫌だった木村の顔が一気に引き締まる。
「後でじゃダメ……っすかねぇ」
「この後会長と出なきゃいけないから、今できると有難いんだけど……」
そんな木村と八木を交互に見た
が一言。
「私のことなら大丈夫ですから、行ってきてください。木村さん」
絶対応援行きますね!続けて紡がれた
の無垢な言葉が、さらに無情さを誘った。
「要領はいいですけど、タイミングは悪いですね」
「追い風のおの字もない」
「無風ですね」
結局後任を命じられた一歩が
を送ることとなり、恨みがましい木村の視線を振り切って一歩は
と鴨川ジムを後にした。
人の恋路を邪魔するつもりは毛頭ないし、犬に食われて死ぬ気もさらさらない。が、恋愛感情が伴っていなくとも一歩にとって
は敬愛する「大好きな先輩」なのだ。お世話になった先輩とゆっくり話す時間、いつも誰かに譲ってばかりじゃつまらない。たまに手に入った二人きりの短い散歩……このくらいの僥倖は許されたっていいだろう。そう思って仰せつかったお役目を果たすべく、キャンキャンと元気よく走る小さな毛むくじゃらに引っ張られながら一歩は
の隣に並んだ。
「幕之内くん、最近どう?ボクシング楽しい?」
「ええ。そうだ、先輩聞いてくださいよ!この前……」
ta犬 aback!
2020/11/27