「幕之内くん」
沈んでいた意識が引き戻される。狭い車内、徐々に速度を緩める電車からは見慣れた風景と迫りくる駅の屋根が眼前の窓にゆっくりと流れている。声をかけられた方に顔を向ければ隣の座席の先輩が笑いながらこちらを見ていた。
「起こしてゴメンね」
「あ、いえ」
「一歩が電車で寝るなんて珍しいなぁ」
そして先輩の奥で同じように笑っている木村さん。
「レイトショーの後だしねー。眠たくなるの分かる分かる」
今日は11月22日。明日は他に予定もあるだろうと、木村さんと先輩が1日早く誕生日を祝ってくれたのだ。練習が終わった後、食事をして、映画を観て。帰りの電車に揺られている合間に居眠りをしてしまったらしい。ノロノロと電車が乗りつけたのは先輩の家の最寄り駅だ。先輩はバッグを肩にかけ立ち上がった。
「じゃあね、幕之内くん。ちょっと早いけどお誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
「
送ってくからオレも降りるわ。クミちゃんもまたな」
「今日はすみません、私までごちそうになっちゃって。ありがとうございます」
「いーってことよ」
二人の「誕生日プレゼント」というのは単にボクをゴハンと映画に連れて行ってくれただけではない。知らない間にクミさんも誘っていたようで、そういう意味を含めての「プレゼント」だったらしい。先輩とは反対の隣に座っているクミさんが二人に深々と頭を下げた。
ドアが開くと膨張した気怠い蒸し暑さが冬のにじり寄る木枯らしに攫われて空気が混ざる。先輩と木村さんが手を振ってホームへ降りていく。ドアが閉まって、次の駅へと緩やかに動き出す窓からは改札口へ歩く木村さんが先輩の手を握ったのと、先輩が嬉しそうに微笑みかけたのが見えた。それもすぐに流されて、駅を離れた後は暗い外の景色が延々と広がるばかり。
「お二人のああいうところ見ると、ホントにお付き合いされたんだなーって実感湧きますね」
そう言ったクミさんの声は弾んでいる。
「ずーっとお互い片想い同士なの見てたから、なんか嬉しいです、私」
「ボクもですよ」
高校を卒業してからも先輩はボクを応援し続けてくれた。そのうちにだんだんジムの皆さんやクミさんたちとも面識が出来て、中でも木村さんが先輩のコトを気に入っちゃって。ずいぶん前から二人で会ったり親密な雰囲気だったのは知っていたけど、この前ついに木村さんが先輩に告白したと聞いた。返事はもちろんOKだった、とも。
ボクとクミさんを乗せた鈍行電車はぐんぐんスピードを上げていく。規則正しいリズムで電車が揺れるたびに自分でも見えない胸の奥の奥で、何かが一緒になってカタカタと揺れている気がした。
「寂しいですか?」
「え?」
「
さん、木村さんに取られちゃったから」
大きな瞳をきゅっと細めて、いたずらっ子のようにクミさんは笑った。
「そんなぁ!先輩はボクのモノじゃ元々ないですし」
「でも
さんのコト好きでしょう?」
「好きって……!ボクは別に……」
「私
さんには嫉妬してませんよ。木村さんがいるし、幕之内さんも
さんには「そういうの」じゃないってなんとなく分かりますから。でも好きって恋愛感情だけじゃないでしょう?幕之内さんにとって
さんは大切な先輩だからそうなのかなって」
カタカタ。ガタガタ。気のせいか電車の揺れが一層大きくなる。
「確かにクミさんのおっしゃる通りですけど、大切な先輩なのは木村さんだって同じです。その二人が幸せになるならボクにとってこんな嬉しいコトないですよ」
「ふふっ、じゃあそういうコトにしておきます」
それ以降クミさんは黙ってしまった。
寂しいですか?
そう聞かれたとき、ドキッとした。クミさんの言葉が電車と共に揺れる感情の輪郭をなぞった。でも明確な正体まではまだハッキリと分からない。
さっき言った通り先輩のコトは大切だ。ずっとお世話になってる大切な先輩。だけどその気持ちは、例えばクミさんに対する想いと同じかと言われれば少し違う。先輩のボクに抱いている感情と木村さんに抱いている感情が違うように。じゃあ胸の奥で焦げているコレは――いや、きっと分からないままでいいんだと思う。
立ち上がった先輩からはアメ玉の匂いじゃなくオシャレな香水の匂いがした。先輩の抜けたボクの隣の座席はもう無愛想なサラリーマンが腰を下ろしている。当時ライセンスの無かったボクはベルトを防衛する側になっていて、電車は次の駅へと向かって動いている。先輩の座る場所は今はもう図書室の受付席でも窓際のパイプ椅子でもなく、手招きした木村さんの隣だ。
お幸せに、先輩。でもよければ、今日みたいにたまには隣へ座らせてもらえますか?この先先輩の居場所がずっとそこでも、あの甘いアメ玉を転がした日のコト忘れてほしくないですから。
Sweet pain
2021/11/23