夕食の片付けを終えたアトラが食堂を後にしてからどのくらい経っただろうか。メリビットさんに頂いた経理マニュアルのデータを閉じ、凝り固まった背中をくんと伸ばす。
左へ視線を滑らせるとすっかり暗くなった窓の外で夜警のライトが点々と光っていた。その灯りに照らされて、夜回り当番のシルエットがガラス越しにぼんやりと滲んで見える。
そして次は右に目を向ける。するとそこには背筋がぐにゃぐにゃになった男がふさふさの金髪の隙間からピスタチオみたいな瞳で私に期待じみた視線を寄越していたのだった。
「休憩しよっか。コーヒー淹れてあげるよユージン」
「……待ってました」
隣に座っていたユージンは私の言葉を待ちわびていたように険しい顔を緩め、タブレットから手を離した。

私が夕食後の食堂を借りて自習を始めたのは、地球支部が解体され火星に戻ってきてからだ。
最初は自分の分だけ。交渉術や経理のデータを読みながらささやかな息抜きとして飲んでいたコーヒーは、いつの間にか自前のタブレットを携えたユージンが隣に座るようになって2杯に増えた。なのでアトラにお願いしてコーヒー粉と器具一式を食堂へ置かせてもらうことにした。
これは私のプライベートな趣味だからドリッパーもサーバーも、全部私物。コーヒー粉だって私のポケットマネーで今も毎回買っている。
でも、ユージンになら一日1杯のコーヒーくらい振舞ったっていい。

ケトルを火にかけ、お湯が沸くのを待つ間にほかの準備をする。するとよたよたキッチンに近づいてきたユージンが食器棚から二人分のマグカップを取り出してくれた。
「ありがと」
「ん」
マグカップを置いたユージンの腕は珍しくジャケットの袖が折られていた。
更に隣に並んだ横顔が少し汗ばんでいるのが目に入りふと今日のことを思い出す。朝洗面台に立っても寒くなかったこととか、昼過ぎに洗濯物がもう乾いた!ってアトラの嬉しい悲鳴を聞いたこととか。あと夕方街中までメリビットさんと買い出しに出かけた時も道路脇のツツジが満開だったっけ。
裏方仕事がメインの私でさえ春の陽気をたくさん感じたのだから、現場で動き回るユージンはとりわけ暑かったに違いない。そう思って
「コーヒー、冷たいのにする?」
と聞いたらユージンは分かりやすく「おっ」みたいな顔をして首を縦に振った。
「じゃ、ガラスのコップと交換お願いしまーす」
「あ?コレでいいだろ」
「よくない。記念すべき今年初アイスコーヒーなんだから、ふさわしいコップにしなきゃ!」
「……んだよそれ」
とはいえ、呆れた顔で文句を言いながらも私のわがままに付き合ってマグカップを引いてくれるあたりユージンは結構優しいのだ。
「アイスとホット、切り替えた最初の一杯が一番おいしいんだよ。テキトーに飲むのはもったいないの」
「めんどくせーなー」
生意気な態度についムッとして腕を小突くと、ユージンは私の弱点を知っているもんだから持って帰ってきたグラスをテーブルに置くとすかさず私の脇腹をつついてきた。
「それ禁止って言ったじゃん!」
「先に手ェ出したのはの方だろーが」
悪い顔で笑うユージンへ一応怒ったそぶりを見せるものの、残念ながら怒りなんてこれっぽちも持ち合わせていなかった。

ユージンは結構、いや、いつだってとびきり優しいんだって本当は知っている。
クーデリアさんの護衛で地球に降りた皆が心配で眠れなかったとき。
責任者として自分が止めなきゃいけなかったラディーチェさんの裏切りを見抜けず、悔しさで泣いてばかりだったとき。
それで、鉄華団を辞めようと思ったとき。
いつも、いつも。誰より早く気付いてそばにいてくれたのはユージンだった。
この自習時間だってむすっとした顔で「抜け駆けするな」と隣に座ったユージンは、きっと私が何かしていないと心が折れそうだったのを見抜いて放っておかなかったんだろう。

たっぷり氷を張ったサーバーへ、ドリッパーから少しずつコーヒーを落としてゆく。
やがて中身が真っ黒に満たされたら、今度はグラスへゆっくりと注ぐ。透明なグラスの中はキラキラと光を反射して、まるで小さな星くずのようだ。
「ね?おいしいでしょ?」
「普通にうまい、けど」
グラスを受け取ったユージンと小さく乾杯して、一口飲むのを見届けてから聞いたけど、私の主張する特別感はイマイチ同意を得られていないようだ。
「もぉー。分かんないかなぁユージン君」
「悪かったな」
「いいよ。分かってくれるまでごちそうしたげるから。次のホットコーヒーもね」
本当は分かってくれなくたっていいんだけど、つまり「季節が変わってもずっとそばにいて」なんて忌憚のない言葉を選んだら、まるで私がユージンのこと好き、みたいじゃない。
「みたいじゃない」じゃないみたい
2025/05/23